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石頭(冷静さ)が必要

★箴言第27章3,4節に、こう記されています。[03]石は重く、砂も軽くはない、しかし愚かな者の怒りはこの二つよりも重い。[04]憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう。★3節の「愚かな者の怒り」という言葉には、二つの解釈が考えられます。第一の解釈は、「賢者の怒り」というものも存在し、それに対して「愚かな者の怒りは‥」と解釈する立場です。第二の解釈は、「愚かな者=怒る」という解釈で、「怒る者」は基本的に「愚かな者」であるという解釈です。★今朝は、そのどちらの立場に立っていても共通する事柄に焦点を当てます。4節が論じているのは、人間の怒りが具体的な形を取る時、「憤り」や「怒り(そのものズバリ)」、そして「ねたみ」になるということです。そして、箴言の著者は「‥の前には、だれが立ちえよう。」と語っています。このことを総括的に言えば、「怒りには抗しがたい力がある」ということです。もっと広く一般化すれば、「感情には抗しがたい力がある」と言えます。★このことを意識して箴言を読みますと、箴言には「知恵」や「知識」そして「訓戒」等の言葉が頻繁に登場します。こちらは、総括的に言えば「考える力」であり、広く一般化すれば「言葉の力」であります。★このことから私が洞察することは、箴言は「感情的な力」に流されないために「考える力」を持てと教えているように思います。大きく述べますが、聖書が「啓示の宗教」と言われ、「神のことば」が、全ての出発点であるとするキリスト者の姿勢は、感情の力が第一とされる価値観からしますと相当石頭に見えます。しかし、その石頭(冷静さ)が重要なのです。

応答的存在としての私達

★箴言第6章にこう記されています。(6)なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。(7)ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、(8)夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める。(9)なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。(10)しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。(11)それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。★この箴言を「全ての被造物は創造主に対して応答する存在である」という視点から考えてみましょう。箴言が記述する蟻の行動は、通常の表現では「本能的」となります。しかし、今日の視点で言えば、蟻は応答的存在として創造主に託された地上的な命を生かしていると言えます。それに対して「なまけ者」はどうでしょう。蟻とは反対に、創造主に対して応答する存在である自分の命を生かしていないと言えます。★人が自分の持つ応答性を生かせない理由は大きく言って二つあります。第一は、本人自身、自分が創造主に対して応答する存在であるということを知らない場合です。第二は、ちょっと長くなります。自分が創造主に対して応答する存在であることを知りつつも、何らかの理由で応答したくない場合です。いずれの理由であれ、結果は同じです。応答することによって得られる結果を受けとることがない、ということです。★創造主が注目しておられるのは競争原理の結果や、能力の差異から生まれる結果ではないと考えます。本質的なことは、語りかけられた御言葉に対して、与えられた応答性を生きているかどうかなのだと考えます。
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