「思い煩い」を主イェスにゆだねてしまう
(26)空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。(27)あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
(30)きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
(33)まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(34)だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
★荒野で悪魔(サタン)の誘惑の言葉に対して主イエスが語られた言葉です。
(04)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
★キリスト者は、上記(04)節の「神の口」の所に「イエスの口」と入れて読むことができます。そして、主イエスとの個人的な関係(インマヌエル)を前提すれば、次の使徒ペテロの言葉も同様です。「神」の所に「イエス」と入れて読むことができます。
(03)神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。
「信仰によって既に義とされた者」の歩みは本物になることですから苦労するのです
アブラハム契約の契約締結の形式はイスラエル王国にあっても継承されていた
(07)また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。(08)彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。(09)主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。(10)彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。(17)やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。
★以上を確認して問います。この契約の締結はアブラハムの時だけでしょうか?次の聖書箇所、エレミヤ書第34章に注目です。
(18)わたしの契約を破り、わたしの前に立てた契約の定めに従わない人々を、わたしは彼らが二つに裂いて、その二つの間を通った子牛のようにする。――(19)すなわち二つに分けた子牛の間を通ったユダのつかさたち、エルサレムのつかさたちと宦官と祭司と、この地のすべての民を、(20)わたしはその敵の手と、その命を求める者の手に渡す。その死体は空の鳥と野の獣の食物となる。
★主なる神様がイスラエルの民とこの契約締結形式を用いていたことがわかります。業の契約も恵みの契約も形式は同じで、違いは誰が「裂いたものの間を通る」のかです。