牧師のページ

「思い煩い」を主イェスにゆだねてしまう

★山上の説教から主イエスの言葉です。

(26)空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。(27)あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
(30)きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
(33)まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(34)だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

★荒野で悪魔(サタン)の誘惑の言葉に対して主イエスが語られた言葉です。

(04)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

★キリスト者は、上記(04)節の「神の口」の所に「イエスの口」と入れて読むことができます。そして、主イエスとの個人的な関係(インマヌエル)を前提すれば、次の使徒ペテロの言葉も同様です。」の所に「イエス」と入れて読むことができます。

(03)神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。

「信仰によって既に義とされた者」の歩みは本物になることですから苦労するのです

◆今朝は、ルターの言葉を聞きます。起点になっている御言葉は、これです。「信仰は、行いを伴わなければ、それだけでは死んでいる。行いの伴ったあなたの信仰を見せなさい。(ヤコブ2:17,18)」◇福音を誇る人々の中で、福音のために喜んで1へラー(昔のドイツの小額銅貨銀貨)でも失ったり、自分の欲望や思い上がりを捨てようとする人が、いったい何人いるだろうか。◇どこの農民も市民も、たとえ勧められても、福音のために、穀物を市場へ1ペニヒも安く出そうとする者はいない。むしろ、1グルデンでも高くできるなら、大いに喜んでそうするだろう。また、市民の誰もが、もし、弱いビールを普通のビールのように売ることができるとしたら、何の良心の咎めも感じないでそうするであろう。◇それは、あらゆる種類の商売や手仕事においても同様であり、誰もがどうやって人々をだまして甘い汁を吸おうかと懸命になり、ただがつがつして欲張りになり害を及ぼす。◇願わくは、神が福音と良心を、それがとどまり得るところにとどまらせてくださるように。◆キリスト教信仰は「信仰によって既に義とされた者」たちが「御霊の法則」に信頼して「死のからだ」を用いて「具体的に義に生きるようになる」ことを目指しています。ルターの視点で言えば、この言葉で理解していることを生きることが信仰を見せることになります。


アブラハム契約の契約締結の形式はイスラエル王国にあっても継承されていた

★福音派の中では、主イエスが語られた「新しい契約」のことは話題になると考えますが、アブラハム契約のことが話題になるのはどれ程でしょうか?ましてや、契約締結の形式となるとほとんど関心が向いていないかもしれません。そこで、アブラハム契約の締結の形式を再確認します。
(07)また主は彼に言われた、「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主です」。(08)彼は言った、「主なる神よ、わたしがこれを継ぐのをどうして知ることができますか」。(09)主は彼に言われた、「三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山ばとと、家ばとのひなとをわたしの所に連れてきなさい」。(10)彼はこれらをみな連れてきて、二つに裂き、裂いたものを互に向かい合わせて置いた。ただし、鳥は裂かなかった。(17)やがて日は入り、暗やみになった時、煙の立つかまど、炎の出るたいまつが、裂いたものの間を通り過ぎた。
★以上を確認して問います。この契約の締結はアブラハムの時だけでしょうか?次の聖書箇所、エレミヤ書第34章に注目です。

(18)わたしの契約を破り、わたしの前に立てた契約の定めに従わない人々を、わたしは彼らが二つに裂いて、その二つの間を通った子牛のようにする。――(19)すなわち二つに分けた子牛の間を通ったユダのつかさたち、エルサレムのつかさたちと宦官と祭司と、この地のすべての民を、(20)わたしはその敵の手と、その命を求める者の手に渡す。その死体は空の鳥と野の獣の食物となる。

★主なる神様がイスラエルの民とこの契約締結形式を用いていたことがわかります。業の契約も恵みの契約も形式は同じで、違いは誰が「裂いたものの間を通る」のかです。

主の年の2022年、おめでとうございます

★新年の挨拶をしつつ、キリスト者が「主の年」の年数を数える事の意味をわかちあいたいと思います。★まず一方の意味ですが、クリスマスの出来事から言って「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」との宣言が2022年間続いていると言えます。また、主の祈りから言えば「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」との祈りが2022年間続いていると言えます。★次に他方の意味です。コリント人への第一の手紙第16章22節に記されたパウロの言葉から言えば「マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)」というこの言葉の実現を待って2022年目に入ったということです。また、使徒行伝に記された御使いの言葉でい言えば「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」というこの言葉の実現を待って2022年目に入ったということです。★以上のように、主イェスが歴史の中に登場して下さったことには「既に成就した」面と「未だ成就していない、即ちこれから成就する」面とがあるのです。このことから分かりますように、キリスト教信仰を持って生きることには「常にこの二つの焦点」があります。★主の年の2022年、新しい年の始まるこの時だけでなく、日々このことを心の内に覚え、宣教共同体(信仰共同体という言葉に対する私の言い換え)の一人一人として、共に歩みましょう。
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