牧師のページ

「選び」と「人間の側の自由な選択的応答」

★今朝は、「選び」と「人間の側の自由な選択的応答」について提言しておきます。★マタイ11章「2527節」と「2830節」です。

(25)そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
(26)父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
(27)すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
(28)すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
(29)わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
(30)わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

★「2527節」を良く読みますと「子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません」とあるように「主イェスの持つ選び」が語られています。その理解を持って「2830節」を読みますと、「わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」という主イェスからの「招きの言葉」が語られてます。★ここから解釈できる事は、招きに応答した者が「父⇄創造主なる神」を信じ得たのは「主イェスの選びの結果」であり、同時に「魂に休みが与えられる」のです。

置かれている場で、出来ることを考え、実践する

★今日は、ローマ人への手紙の内容を先取りします。
[03]わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。 [04]なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、 [05]わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。 [06]このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、 [07]奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、[08]勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
★5節に注目します。パウロは「わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。」と語っています。この言葉が「教会とはキリストのからだである」ということを伝えています。★この聖書個所から、多摩NTキリスト教会に集う一人一人は、神の不思議な摂理によって「キリストにあって一つのからだを形成している肢体(=器官)」である事がわかります。そして、同時に、このパウロの言葉から多摩NTキリスト教会に集う一人一人は「みな同じ働きをしてはいない」と解釈する事ができます。★感染症が拡大し、一同が教会に集うことが難しい状態ですが、置かれている場で、教会のために、各自が出来ることを忠実に実践していただければと願います。

「もし愛がなければ」─愛が御霊の実であることを前提して

★コリント人への第一の手紙第13章1節3節の御言葉を考えます。
(01)たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
(02)たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
(03)たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
★私の心に止まるのは「」という言葉や「無益」という言葉です。この箇所には「に対して」にあたる言葉が直接語られていません。ですから、案外「全ての事柄に対して」というように読まれてしまう可能性があります。★前後の文脈から考えますと、説明的な言い方ですが「相手にとっても、自分にとっても」と読むのが自然に思えます。★4節以降に語られる愛の要素を用い、敢えて「普段から、高ぶった思いに満ち、誇らしげな態度をにおわせ、自分の利益しか考えないような人格のキリスト者」を想定してみましょう。2節を用いれば、このキリスト者が「預言をし、あらゆる奥義とあらゆる知識を語り、山を移すほどの強い信仰を示しても」相手からすれば「また自慢が始まったよ…。」となるように思えます。そのキリスト者の「預言奥義知識強い信仰」が「相手にとっても、自分にとっても、無に帰してしまう」ということでしょう。

「境界線」と「隣人愛」の原点─不必要な自責からの解放のために

★今回は「境界線(バウンダリー)」という書物からの知見に基づいたコラムです。前回は神から管理を委ねられた」ということは、同時に「神に対して、如何に管理したのかを報告する時がある」ということを語りました。★今日は、そもそも「境界線(バウンダリー)」とは何?です。私の理解では「境界線」とは「“境界線というコイン”の両面」を統合した表現です。説明します。「境界線」と聞いたら「玄関前に芝の庭を持った二つの家の住人」をイメージしてください。★当然のことですが、この二つの家の間には「地境(敷地の境界)」がありますから「原則」Aさんは、隣人Bさんの庭の芝を刈ることはしません。つまり、Aさんには、自分が「所有権」を持つ自分の家の庭の芝を刈る「責任」があり、Bさんには、自分が「所有権」を持つ自分の家の庭の芝を刈る「責任」があるのです。★このように、自分の人生には「所有権」を持つ領域があることと、同時に、自分は、その領域に対して果たすべき「責任」をがあることが「“境界線というコイン”の両面」の事です。★このことから、明確にしなければならないことがあります。「隣人愛」の「原点」です。キリスト者の多くは「自分の庭の芝の手入れをしないBさんに代わってAさんがBさんの家の庭の芝を刈ることが隣人愛の原点である」と考えてしまいます。しかしそうではないのです。AさんもBさんも共に、自分の家の庭の芝を刈ることが「隣人愛」の原点なのです。自分が「所有権」を持つ領域で、自分の「責任」を果たすことが「隣人愛」の原点なのです。まず、このことを明確にしましょう。
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