牧師のページ

「境界線」と「隣人愛」の原点─不必要な自責からの解放のために

★今回は「境界線(バウンダリー)」という書物からの知見に基づいたコラムです。前回は神から管理を委ねられた」ということは、同時に「神に対して、如何に管理したのかを報告する時がある」ということを語りました。★今日は、そもそも「境界線(バウンダリー)」とは何?です。私の理解では「境界線」とは「“境界線というコイン”の両面」を統合した表現です。説明します。「境界線」と聞いたら「玄関前に芝の庭を持った二つの家の住人」をイメージしてください。★当然のことですが、この二つの家の間には「地境(敷地の境界)」がありますから「原則」Aさんは、隣人Bさんの庭の芝を刈ることはしません。つまり、Aさんには、自分が「所有権」を持つ自分の家の庭の芝を刈る「責任」があり、Bさんには、自分が「所有権」を持つ自分の家の庭の芝を刈る「責任」があるのです。★このように、自分の人生には「所有権」を持つ領域があることと、同時に、自分は、その領域に対して果たすべき「責任」をがあることが「“境界線というコイン”の両面」の事です。★このことから、明確にしなければならないことがあります。「隣人愛」の「原点」です。キリスト者の多くは「自分の庭の芝の手入れをしないBさんに代わってAさんがBさんの家の庭の芝を刈ることが隣人愛の原点である」と考えてしまいます。しかしそうではないのです。AさんもBさんも共に、自分の家の庭の芝を刈ることが「隣人愛」の原点なのです。自分が「所有権」を持つ領域で、自分の「責任」を果たすことが「隣人愛」の原点なのです。まず、このことを明確にしましょう。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver