牧師のページ

創造の御業のゴールである「神の国」

★主イェスが語られた一番最初の宣教の言葉はこれです。
(14)ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、(15)「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコ1章)★続いて、主イェスが語られた「終末の出来事」です。
(31)人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。(32)そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、(33)羊を右に、やぎを左におくであろう。(34)そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている
御国を受けつぎなさい。(マタイ25章)★主イェスによる宣教の核心は「神の国」です。そして、その「神の国」について、主イェスは「世の初めからあなたがたのために用意されている御国」と説明しています。★これからも繰り返し語るつもりですが、最初のアダムが契約違反した時に失ったものはこの「神の国」に入るという創造のゴールです。最後のアダムである主イェスが回復してくださったのは、この「神の国」に入るための道です。創世記の啓示に従えば、本来、すべての人間が「神の民」であり「神の国」入るはずであったのです。この創造の原点を見失うと、被造世界に生きる時の二つの軸、「被造世界の管理(社会的責任)」と「主イエスの福音の伝達(伝道)」を見失ってしまいます。

主イェスが語られたインマヌエルの約束

★今朝は、まず主なる神様がエレミヤを預言者として召した時の言葉です。「見よ、わたしはきょう、この全国と、ユダの王と、そのつかさと、その祭司と、その地の民の前に、あなたを堅き城、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである、と主は言われる。」読んでの通りですが「わたしがあなたと共にいて」という「インマヌエルの約束」が登場しています。★続いて主なる神様がモーセを召した時の言葉です。神は言われた、「わたしは必ずあなたと共にいる。これが、わたしのあなたをつかわしたしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう。」ここにも「わたしは必ずあなたと共にいる」との約束が語られています。★すぐにヨシュアを思い起こします。主なる神様はヨシュアに対してこう語られました。「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」★この「インマヌエルの約束」を語られた人物たちの位置に自分を置いてみますと、一方では「不安」があり、もう一方では「安心」があります。アンビバレントな心理状況ですが、聖書に記録されたそれぞれの人物たちの歴史を読めば、ゴールははっきりしています。主なる神様のご計画は必ず成就しています。★今の私たちには、主イェスが語られた次の言葉があります。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」主イェスをどう考えるかで、自分に対するこの言葉の持つ意味が変わります。

パウロが語る“救いに至る信仰”の内容

★使徒パウロの言葉をローマ人への手紙から引用します。
(09)すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
(10)なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
(11)聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
(12)ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
(13)なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
★ここに記されたパウロの判断を整理しますと、救いに至る信仰とは「
イエスは主である」と「告白する」ことです。そして、同時に、その告白の背後には、「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」と「自分の心」で信じているという事実が存在します。その両者を受けた上で、パウロは「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と語っています。★「人間的」に考え「イエスは主である」と「告白する」だけで充分ではないか、と言いたくなるかもしれませんが、パウロは「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」という事実を信仰告白の中から除外しないのです。真正なキリスト教信仰では「自分の心」が「死人の中から主イェスが復活された」という事実を曖昧にしてしまうことはできないということです。

「執り成しの祈り」へ向けて

★コリント人への第二の手紙第5章10節、11a節にこうあります。
(10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。(11)このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。★この言葉から理解できますように、パウロは、やがて歴史の中に到来するであろ「さばきの座」を意識しています。その場では、「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」のです。ですから、「主の恐るべきことを知っている」パウロは「人々に説き勧める」のです。言葉を変えれば「福音を説く」のです。★続くパウロの言葉に聞くなら「福音を説く」ことは、時には「狂気」に映ることもあることがわかります。ですから、単純には受け入れてもらえないのでしょう。パウロは語ります。(13)もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。(14)なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。★この言葉から分かりますように、たとえ「狂気」というレッテルを貼られたとしても、パウロが「福音を説く」のは、たった一つの理由によります。それは「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているから」です。この「キリストの愛」とは、贖罪死をもって、罪人の全ての罪を帳消しにしてしまうという福音の伝える「破格の恵み」を指し示していると思います。★「裁かれて当然である」という自覚を与えられることが恵みの入口であることを思う時、「執り成し」の祈りが求められていることに気づきます。
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