August 2014
創造の御業のゴールである「神の国」
31/08/14 00:00

(14)ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、(15)「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。(マルコ1章)★続いて、主イェスが語られた「終末の出来事」です。
(31)人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。(32)そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、(33)羊を右に、やぎを左におくであろう。(34)そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。(マタイ25章)★主イェスによる宣教の核心は「神の国」です。そして、その「神の国」について、主イェスは「世の初めからあなたがたのために用意されている御国」と説明しています。★これからも繰り返し語るつもりですが、最初のアダムが契約違反した時に失ったものはこの「神の国」に入るという創造のゴールです。最後のアダムである主イェスが回復してくださったのは、この「神の国」に入るための道です。創世記の啓示に従えば、本来、すべての人間が「神の民」であり「神の国」入るはずであったのです。この創造の原点を見失うと、被造世界に生きる時の二つの軸、「被造世界の管理(社会的責任)」と「主イエスの福音の伝達(伝道)」を見失ってしまいます。
主イェスが語られたインマヌエルの約束
24/08/14 00:00

パウロが語る“救いに至る信仰”の内容
17/08/14 00:00

(09)すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
(10)なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
(11)聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
(12)ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
(13)なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
★ここに記されたパウロの判断を整理しますと、救いに至る信仰とは「イエスは主である」と「告白する」ことです。そして、同時に、その告白の背後には、「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」と「自分の心」で信じているという事実が存在します。その両者を受けた上で、パウロは「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」と語っています。★「人間的」に考え「イエスは主である」と「告白する」だけで充分ではないか、と言いたくなるかもしれませんが、パウロは「神が死人の中からイエスをよみがえらせた」という事実を信仰告白の中から除外しないのです。真正なキリスト教信仰では「自分の心」が「死人の中から主イェスが復活された」という事実を曖昧にしてしまうことはできないということです。
「執り成しの祈り」へ向けて
03/08/14 00:00

(10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。(11)このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。★この言葉から理解できますように、パウロは、やがて歴史の中に到来するであろ「さばきの座」を意識しています。その場では、「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」のです。ですから、「主の恐るべきことを知っている」パウロは「人々に説き勧める」のです。言葉を変えれば「福音を説く」のです。★続くパウロの言葉に聞くなら「福音を説く」ことは、時には「狂気」に映ることもあることがわかります。ですから、単純には受け入れてもらえないのでしょう。パウロは語ります。(13)もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。(14)なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。★この言葉から分かりますように、たとえ「狂気」というレッテルを貼られたとしても、パウロが「福音を説く」のは、たった一つの理由によります。それは「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているから」です。この「キリストの愛」とは、贖罪死をもって、罪人の全ての罪を帳消しにしてしまうという福音の伝える「破格の恵み」を指し示していると思います。★「裁かれて当然である」という自覚を与えられることが恵みの入口であることを思う時、「執り成し」の祈りが求められていることに気づきます。