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「執り成しの祈り」へ向けて

★コリント人への第二の手紙第5章10節、11a節にこうあります。
(10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。(11)このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。★この言葉から理解できますように、パウロは、やがて歴史の中に到来するであろ「さばきの座」を意識しています。その場では、「善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない」のです。ですから、「主の恐るべきことを知っている」パウロは「人々に説き勧める」のです。言葉を変えれば「福音を説く」のです。★続くパウロの言葉に聞くなら「福音を説く」ことは、時には「狂気」に映ることもあることがわかります。ですから、単純には受け入れてもらえないのでしょう。パウロは語ります。(13)もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。(14)なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。★この言葉から分かりますように、たとえ「狂気」というレッテルを貼られたとしても、パウロが「福音を説く」のは、たった一つの理由によります。それは「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているから」です。この「キリストの愛」とは、贖罪死をもって、罪人の全ての罪を帳消しにしてしまうという福音の伝える「破格の恵み」を指し示していると思います。★「裁かれて当然である」という自覚を与えられることが恵みの入口であることを思う時、「執り成し」の祈りが求められていることに気づきます。
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