March 2021
創造主から見て、善悪を知るものとなっている人間がわかる場所
28/03/21 00:00
★今日は使徒行伝第2章22、23節に注目します。口語訳です。
[22]イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
[23]このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
★この箇所でまずペテロは「イエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによる」と語っています。つまり「イエスが渡された」のは「神の定めた計画である」となります。続いて、ペテロは「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した」とも語ります。これは「イスラエルの人たち」が「イエス」を「不当な裁判」により「十字架につけて殺したのだ」という断罪の言葉です。★ここには現代人(の理性)が考えれば「矛盾だ」と結論づける論述が堂々と展開されています。皆さんは、ペテロは無学で無知な人物だからこのような論述が語れるのだ、とお考えになりますか?もちろん、その「考え」もありです。なぜなら、この聖書箇所事態が、人間の側のそのような応答を認めているからです。さらに言えば、直前の21節にこうあります。「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」★論理的にご理解いただけると思いますが「主の名を呼び求めるかどうか」を決めるのは私たちですが、「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」と決めておられる御方がいるわけです。これが聖書の啓示です。
ローマ人への手紙第9章に取り組む準備として
21/03/21 00:00
★今日のきっかけは、パウロが語るローマ8:29です。こう記されています。
(29)神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
★この言葉からわかりますように「神があらかじめ知っておられる者たち」とは、キリスト者のことですから、キリスト者は究極「主イェスに似る者」となるように「あらかじめ定められている」わけです。★この「あらかじめ定められている」という言葉が、キリスト教界の中で「選びの教理」を生み、キリスト教界内の各教派で、その受け止め方に違いがあります。「創造主なる神の絶対的自由をより尊重する立場」に立てば、全ての事柄は「聖なる定めの下にある」という教理内容となります。これに対して「被造物である人間の自由意志をより尊重する立場」に立てば、全ての事柄が「聖なる定めの下にあるとは言えない」という教理内容となります。当初は、恐らく激しい論戦が繰り返されたと思いますが、この両者は統一見解を持つことが難しく、現在、別々の教派として存在することになります。★この問題は、聖書の啓示を丁寧に読んで行けば、聖書の神の「三位一体論」やイエス・キリストの「二性一人格論」の論理構造と同様に、「被造物である人間の自由意志」が保証されつつ、同時に「創造主なる神の絶対的な自由に基づいた選び(創造主なる神の側の決定)」が成り立っていると判断せざるを得ません。つまり「創造主なる神」は一方では「選び」を行いつつ、他方では「人間の側の自由意志と責任を問うことが出来る」ということです。
(29)神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。
★この言葉からわかりますように「神があらかじめ知っておられる者たち」とは、キリスト者のことですから、キリスト者は究極「主イェスに似る者」となるように「あらかじめ定められている」わけです。★この「あらかじめ定められている」という言葉が、キリスト教界の中で「選びの教理」を生み、キリスト教界内の各教派で、その受け止め方に違いがあります。「創造主なる神の絶対的自由をより尊重する立場」に立てば、全ての事柄は「聖なる定めの下にある」という教理内容となります。これに対して「被造物である人間の自由意志をより尊重する立場」に立てば、全ての事柄が「聖なる定めの下にあるとは言えない」という教理内容となります。当初は、恐らく激しい論戦が繰り返されたと思いますが、この両者は統一見解を持つことが難しく、現在、別々の教派として存在することになります。★この問題は、聖書の啓示を丁寧に読んで行けば、聖書の神の「三位一体論」やイエス・キリストの「二性一人格論」の論理構造と同様に、「被造物である人間の自由意志」が保証されつつ、同時に「創造主なる神の絶対的な自由に基づいた選び(創造主なる神の側の決定)」が成り立っていると判断せざるを得ません。つまり「創造主なる神」は一方では「選び」を行いつつ、他方では「人間の側の自由意志と責任を問うことが出来る」ということです。
「御言葉(啓示の言葉)」の意味を問うことが、最終的に主イェス(救い)に帰結するのです。
07/03/21 00:00
★今日は、使徒行伝に記された、エチオピア人の宦官の救いの記事を読みます。
[26~28]…主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。★この宦官がイザヤ書(旧約聖書)を読んでいた事がわかります。
[29.30,31]御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。
[32]彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「イザヤ書第53章7,8節(記載省略)」。
[34]宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。
★宦官は旧約聖書(の啓示)の意味を問うていることがわかります。
[35]そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。
[36,38]道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。(写本に基づき省略)そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。★主イェスの御名による洗礼へと至りました。
[26~28]…主の使がピリポにむかって言った、「立って南方に行き、エルサレムからガザへ下る道に出なさい」(このガザは、今は荒れはてている)。そこで、彼は立って出かけた。すると、ちょうど、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財宝全部を管理していた宦官であるエチオピヤ人が、礼拝のためエルサレムに上り、その帰途についていたところであった。彼は自分の馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。★この宦官がイザヤ書(旧約聖書)を読んでいた事がわかります。
[29.30,31]御霊がピリポに「進み寄って、あの馬車に並んで行きなさい」と言った。そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。
[32]彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「イザヤ書第53章7,8節(記載省略)」。
[34]宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。
★宦官は旧約聖書(の啓示)の意味を問うていることがわかります。
[35]そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。
[36,38]道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。(写本に基づき省略)そこで車をとめさせ、ピリポと宦官と、ふたりとも、水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。★主イェスの御名による洗礼へと至りました。