牧師のページ

創造主から見て、善悪を知るものとなっている人間がわかる場所

★今日は使徒行伝第2章22、23節に注目します。口語訳です。

[22]イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざと奇跡としるしとにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
[23]このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。

★この箇所でまずペテロは「イエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによる」と語っています。つまり「イエスが渡された」のは「神の定めた計画ある」となります。続いて、ペテロは「あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した」とも語ります。これは「イスラエルの人たち」が「イエス不当な裁判」により「十字架につけて殺したのだ」という断罪の言葉です。★ここには現代人(の理性)が考えれば「矛盾だ」と結論づける論述が堂々と展開されています。皆さんは、ペテロは無学で無知な人物だからこのような論述が語れるのだ、とお考えになりますか?もちろん、その「考え」もありです。なぜなら、この聖書箇所事態が、人間の側のそのような応答を認めているからです。さらに言えば、直前の21節にこうあります。「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」★論理的にご理解いただけると思いますが「主の名を呼び求めるかどうか」を決めるのは私たちですが、「主の名を呼び求める者は、みな救われるであろう。」と決めておられる御方がいるわけです。これが聖書の啓示です。

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