牧師のページ

創造主なる神は偽り欺くことをなさらない御方である

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★信仰にかかわる御言葉で有名なのはヘブル人への手紙11章1節です。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
・この御言葉の中にある「
望んでいる事がら」という部分にどのような内容を入れるのかによってその人の「信仰の歩み」が決まってきます。もう少し厳しく言えば「信仰の質」が決まってきます。★2節以降からアブラハムについて拾えば「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」とあります。★この11章全体の御言葉を背後に持ちつつと推察しますが、ルターが次のように語っています。「見たことも触れたこともない財貨にかかわって、まるでそれを手にとっているかのように扱い、神は偽り欺くことをなさらないことを知っているほかには何の慰めももたない、それが信仰のありようである。」★この言葉を私は次のように聴き取りました。自分が「ある事柄」に直面したとします。その時の私が「信仰を働かせる」とは「どのような事柄が起きても、神は偽り欺くことをなさらない御方なのだから、起きたこの事柄は、わたしにとっても神にとっても重要な事柄に違いない。だから、起きたこの事柄を見たことも触れたこともない財貨にかかわって、まるでそれを手にとっているかのように扱おう」★私たちキリスト者が「創造主なる神は偽り欺くことをなさらない御方である」と判断し、その口から出る言葉に従うことは、神の国までを視野に入れることが出来るゆえ、決して失望に終わることがないのです。

創世記の啓示から定義する「祈り」

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「祈る」ことについて、様々な解説がありますが、最近最も心に落ちた言葉を内田和彦先生の著作から見つけました。★出発点は「三位一体の神」です。次に、その「神のかたち」に私たち人間が創造されている事実です。☆神は自らを「われわれ」と表現なさる方です。神ご自身の内で人格的な交わり、愛の交わりがあるのです。神は確かに孤独の神、孤立した神ではありません。互いに愛し合う交わりの内に永遠に存在しておられる方なのです。☆その神に似たものとして造られた私たちですから、私たち自身、交わりの内に生きる者です。分かち合い、支え合うことが必要です。しかしそれ以前に、私たちを造られた神との人格的な交わりを必要としています。その交わりが祈りなのです。★内田先生のこの定義的文章は、どちらかといえば「祈り」を各論的に語る文章に接していたわたしにとって、とても「スッキリ」しました。
(26)神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(27)神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(28)神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
★大きく語りますが、この言葉を出発点に置いて、わたしたちが、自分自身の人生をも含め、被造世界を管理しようとする時、必然的に、「主よ、ここはどのように管理したら良いのでしょうか?」という言葉が口をついて出て来るのです。これが祈りの発露です。

被造世界の管理者として、為政者の為に祈る

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★いつの時代も「人間の現実は変わらない」ということを知るルターの言葉に出会いました。☆「わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった。(マタイ11:17)」。☆今の時代もまだこの通りである。人が福音を説教しても役に立たない。律法を説教しても役に立たない。笛を吹いても踊ってくれない。人が嘆いても、彼らは悲しんでくれない。☆人は邪悪な世を本当に楽しむことも、本当に悲しむこともできない。この民は律法も福音も理解せず、また理解しようともしない。彼らを罪人にすることもできず、罪に対して勇気づけることもできない。彼らを見えなくさせることも、見えるようにさせることもできないのである。☆ある人が意のままにに生きるなら、それは正しくない。また、他の人が、きびしい厳格な生き方をするなら、それも適切でない。いったい人はこのひどい世でどのように生きるべきなのか。☆たとえこの世が何も正しいことをしないにしても、人がこの世のすることをすべてほめたたえるなら、この世は喜ぶのであろう。★「もし神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となるなら、どうして、わたしはなおも罪人としてさばかれるのだろうか。むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」★今の時代、為政者の中に、まさにこの論理構造を持つ言葉を語る人たちが多いように思えてなりません。ですから、為政者の為に祈ることが必要なのだと教えられます。「すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。

御言葉と聖霊に心を開く時に分かること

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★「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」。主イェスが語られたこの御言葉に基づいてルターが次のように語っています。☆自分自身で神について学ぶこともなく、私の説教と共に聖霊を教師とすることもない人々、そのような人々には手紙も教えも役に立たない。なぜなら、彼らにとっては神ご自身も聖書全体も満ち足りたものとならないからである。いや、たとえ草木も葉も、山や谷も、すべての被造物が舌をもち、教えることができたとしても、彼らにおいては、説教も教訓も講話も手紙も役立たないのである。人の理性や血肉は、聖書の語ることを理解することもとらえることもできないので、神が聖霊によって心の中に啓示してくださらなければならず、それは御言葉によって耳ヘ宣べ伝えられることによるのである。☆キリストを知るにはあらゆる本をもってしても足りず、あらゆる教えも乏しく、あらゆる知恵も愚かである。神のみが私たちにご自身をあらわしてくださらなければならない。★ルターのこの言葉を丁寧に聴き取れば、あくまでも私の理解ですが、御言葉を読もうという意志を持ちつつ、聖霊に教えていただこうとの願いを持ちつつ、御言葉に向き合う時には、既に、御言葉が開いていることに気付くということです。★このことは、主なる神様から見て、明らかに罪人であると判断される私たちの内に起こる事です。主イェスは心の外に立ち、御言葉と聖霊を用いて既に私たち一人一人の心の戸をたたいておられます。心の戸を開く手を動かす決断は、私たちの側にあります。
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