September 2009
主イエスの教えが成り立ちにくくなっている現実
27/09/09 00:00
★今朝考えます言葉はこれです。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」★今朝は、一番否定的な事柄を扱います。この言葉は、原理的に言いますと、聞き手との間に成り立つ共通認識を前提としています。その共通認識とは、「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者はいない。魚を求めるのに、へびを与える者はいない。」つまり、「たとえ悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする。」ということです。★この言葉を聞きつつ、私たちは、はたと立ち止まってしまいます。なぜなら、主イエスの論理を受けて語るとすれば、現代の日本において、「たとえ悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする。」というこの言葉が、自明な共通理解と言えないように思うからです。★私自身の持つ自己中心性を正直に見つめつつ語らせていただくなら、善人と呼ばれそうな人たちの中にですら既に、良い贈り物をするどころか、子供たちの存在そのものを、平気でないがしろにしているとしか思えない現実があるからです。★ですから、「それと同じように」という言葉を持って「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」と語り繋げ、子供たちが納得できる教えの言葉として、この言葉を私たちは語りえないのではないでしょうか。
キリスト者の側の粘り強いしつこさ
20/09/09 00:00
★「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」今回は、この主イエスの言葉を考える第3回目です。★まず最初に、よく知られている事柄から確認します。実は、ギリシャ語の直訳で言えば、ここに登場している3つの動詞には継続の意味があるのです。つまり、「求めつづけよ・捜し続けよ・たたき続けよ」ということです。★この点を理解して、先ず、後半部分に注目してみましょう。そうしますと、この後半の言葉は、「すべて求め(続け)る者は得、捜(し続ける)者は見いだし、門をたた(き続ける)者はあけてもらえる」となります。このように翻訳できることがわかりますと、次に、視点を変えて言い換えれば「得ることが出きるのは、求め(続け)るからだ」、「見出すことが出きるのは、捜(し続ける)からだ」、「門をあけてもらえるのはたた(き続ける)からだ」となります。★最後に、後半の言葉は、前半の言葉の言い換えなのではないか、という視点に立ちますと、ここでの強調点は、人間の側が、積極的に求め続けることであり、積極的に捜し続けることであり、積極的にたたき続けることなのだ、となります。★このことを大胆に言えば、「あきらめずに求めよ、そうすれば、与えられるであろう。あきらめずに捜せ、そうすれば、見いだすであろう。あきらめずに門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」ということです。私たちキリスト者は、主なる神様に対して、もっと粘り強く、且つしつこくて良いのです。
求めよ・捜せ・門をたたけ
06/09/09 00:00
★「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」★今日も引き続き、この主イエスの語られたこの言葉と取り組みます。前回確認しましたが、これは「主なる神様が私たちの願望成就マシーンである」というような意味ではありませんでした。★このことを前提して、一番最初になすべきは、文脈の設定です。大きな流れを言えば、「求めよ」という言葉は、少し戻って「まず神の国と神の義とを求めなさい。」という言葉に繋げることが出来ます。また「門をたたけ」は、少し進んで「狭い門からはいれ。」という言葉に関係づけることが出来ます。このように設定した文脈を考えてみましょう。そうしますと、意味が絞り込まれ、聞き取れる内容も明らかになります。★その明らかになる中心点とは、「求め、捜し、(門を)たたく」というこの三つの動詞は、「神の国と神の義」という主題に関係し、同時に、「命にいたる」という主題とも関係しているということです。いかがでしょうか。★そうしますと、主イエスの言葉が伝えているのは、「神の国と神の義」に関係する事柄においては、人間の側が、「求め、捜し、(門を)たたく」というこの三つの動詞に示される行動を主体的に実践せよ、ということです。同時に、「命にいたる」という事柄においても、人間の側が、「求め、捜し、(門を)たたく」というこの三つの行動を主体的に実践することが必要なのです。★聖書の啓示で言えば、人間は「応答する存在」として創造されているのです。