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主イエスの教えが成り立ちにくくなっている現実


★今朝考えます言葉はこれです。「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」★今朝は、一番否定的な事柄を扱います。この言葉は、原理的に言いますと、聞き手との間に成り立つ共通認識を前提としています。その共通認識とは、「自分の子がパンを求めるのに、石を与える者はいない。魚を求めるのに、へびを与える者はいない。」つまり、「たとえ悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする。」ということです。★この言葉を聞きつつ、私たちは、はたと立ち止まってしまいます。なぜなら、主イエスの論理を受けて語るとすれば、現代の日本において、「たとえ悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をする。」というこの言葉が、自明な共通理解と言えないように思うからです。★私自身の持つ自己中心性を正直に見つめつつ語らせていただくなら、善人と呼ばれそうな人たちの中にですら既に、良い贈り物をするどころか、子供たちの存在そのものを、平気でないがしろにしているとしか思えない現実があるからです。★ですから、「それと同じように」という言葉を持って「天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」と語り繋げ、子供たちが納得できる教えの言葉として、この言葉を私たちは語りえないのではないでしょうか。
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