December 2011
主イエス様の誕生を祝う
25/12/11 00:00
子供:お父さん、どうしてクリスマスにはお祝いするの。
父親:それはね、救い主のイエス様がお生まれになったからだよ。
子供:でも、イエス様ってユダヤ人の王としてお生まれになったって、教会学校で聞いたよ。それに王様がお生まれになったからお祝いするの?
父親:良い質問だね。でも一度に答えるのは難しいな。簡単に言えば、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様は、神の国の王様なんだ。この神の国は全世界の国々のその上にある国のことなんだね。この意味では、何処の国で生まれた人でも神の国に入ることができるんだ。それから、私たちは、王様がお生まれになったからお祝いする、というのとはちょっと違うんだ。このイエス様は、罪人である私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪の問題を解決してくださった。その結果、私たちは、このイエス様を救い主と信じるだけで、神の国に入れていただけるんだ。このことを「ただ信じるだけで救われる」とキリスト教会では言うんだ。そのイエス様がお生まれになったから、お祝いするんだ。
子供:ふーん。なんか、よく分かんないな。
父親:そうなんだ。それも良い答えだね。このことは、聖書を読み続けることによって、聖霊なる神様が教えてくださる事なんだ。人間の力を越えた出来事なんだ。
子供:それって、毎日聖書を読めってこと?ああ、質問しなきゃよかったよ。
父親:それはね、救い主のイエス様がお生まれになったからだよ。
子供:でも、イエス様ってユダヤ人の王としてお生まれになったって、教会学校で聞いたよ。それに王様がお生まれになったからお祝いするの?
父親:良い質問だね。でも一度に答えるのは難しいな。簡単に言えば、ユダヤ人の王としてお生まれになったイエス様は、神の国の王様なんだ。この神の国は全世界の国々のその上にある国のことなんだね。この意味では、何処の国で生まれた人でも神の国に入ることができるんだ。それから、私たちは、王様がお生まれになったからお祝いする、というのとはちょっと違うんだ。このイエス様は、罪人である私たちの罪のために、十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪の問題を解決してくださった。その結果、私たちは、このイエス様を救い主と信じるだけで、神の国に入れていただけるんだ。このことを「ただ信じるだけで救われる」とキリスト教会では言うんだ。そのイエス様がお生まれになったから、お祝いするんだ。
子供:ふーん。なんか、よく分かんないな。
父親:そうなんだ。それも良い答えだね。このことは、聖書を読み続けることによって、聖霊なる神様が教えてくださる事なんだ。人間の力を越えた出来事なんだ。
子供:それって、毎日聖書を読めってこと?ああ、質問しなきゃよかったよ。
いつでも口ずさむ必要のある言葉
11/12/11 00:00
★今朝は、婦人祈祷会からのお裾分けです。使徒パウロは、分争の問題が起きていたコリントの教会に対して、問題解決のために手紙を書きました。その手紙の中に、次のような言葉があります。「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。」★前後の文脈に基づいてこの言葉を説明しますと、パウロは次のように語っているのです。パウロに倣って単数形にします。「あなたは、自分で自分自身を偉くしている。あなたは、自分の持っているものを誇り、高慢になっている。しかし、あなたの持っているもので、創造主なる神様からもらっていないものがあるか。もし創造主なる神様からもらっているなら、なぜもらっていないもののように(=自分の力によって獲得したかのように)誇るのか。」コリント教会での分争の理由は、持っているものを根拠にした“高慢さ”だったのです。★最も根源的なことですけれども、聖書を読みますと、命から始まり、自分が持っていると思っていたものは全て創造主なる神様から“与えられた”ものであることがわかります。★しかし、赦された罪人に過ぎないキリスト者は、その罪の故に、ものを持つようになると創造主なる神様から“与えられた”とか“持たせていただいた”ということを“すぐに”忘れてしまうのです。そして、忘れた時に心が高慢になるのです。★“わたしの全ては、創造主なる神様からいただいたもの”。いつでも口ずさむ必要がある言葉です。
「心の姿勢」の持つ力
04/12/11 00:00
★心の世界を学んでいますと、心の姿勢における「静」と「動」の存在を思わされます。この二つのうち、今朝は「動」を考えます。★「動」の筆頭は使徒パウロの次の言葉に見出せます。「わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。」読んでの通り、まさに使命達成に向かう使徒パウロの情熱と積極性がほとばしり出ています。★心に勢いがあるとはこのような心の状態を言うのだと思います。(1)進むべき目標が明確です。(2)目標達成のために自分自身の全存在をかけています。(3)目標に向かっている姿勢が全くぶれていません。★加えて、私たちはこの言葉の背後にある、パウロの体験を知っています。「わたしは…苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかにおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。」★誤解のないように加えます。「行為の大きさ」を考えたいのではないのです。「心の姿勢」の持つ力を考えたかったのです。