牧師のページ

“絆”という言葉を突き詰めれば

★マナの出来事に関する記事にこうあります。[16]主が命じられるのはこうである、『あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい』と」。[17]イスラエルの人々はそのようにして、ある者は多く、ある者は少なく集めた。[18]しかし、オメルでそれを計ってみると、多く集めた者にも余らず、少なく集めた者にも不足しなかった。おのおのその食べるところに従って集めていた。★大きく考えます。人間が一つの欲求を満足させる時、たった一人で生きているのであれば問題にならないことでも、別の人格と共に生きる時には、それが問題になります。例えば、パン一つに、人間が三人であれば、三人の欲求を満たすためには、三人のそれぞれが、欲求の充足をコントロールしなければなりません。この時、誰か一人でも、一つのパンを全部自分で食べたいと考え、それを実行するなら、たちまち争いになります。★ところが、この問題解決の為に、人間が考え出した方法とは、人間の間に優劣をつけ、配分を不均等にしても文句を言わせないようにしたことです。乱暴に聞こえるかも知れませんが、この種の社会の仕組みは、世界中のあらゆる場所でものの見事に機能しています。★主なる神様の御心は、世界がこのような状態になることではなかった事が、先の聖句から明確にわかります。同時に、主なる神様から『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』という律法がなぜ人間に与えられているのか、その理由がよくわかります。

結果を即座に求めない支援

★今朝は、マザー・テレサの言葉を紹介させてください。
 「あなた方の国は豊かな国です。
   けれど私は、あなた方の国の路上で
    酔っぱらって倒れている人を見かけました。
     だれも彼を起こしませんし、
      だれひとりとして彼のことを
       気にかける様子もありませんでした。
        だれも、彼の人間としての尊厳を
         回復させようとしたり、
          彼が神の子ども、私たちの兄弟である
           ということを
            意識させようとはしなかったのです。」
★すぐに思い起こすのは、主イエスの語られた「善きサマリヤ人」の譬え話です。そして同時に神田英輔師の語られた支援モデルの型です。『特別な人』が『大きなこと』をするという従来型から『普通の人』が、誰にでもできる『小さな愛の行動』を実践するというものです。神田師は、映画「ペイ・フォアワード」の考え方も紹介されました。★実際のことを言えば、恐らく、必要なアイデアの核は全て、歴史の中で既に語られています。課題なのは“それを実践する人”がいるかどうかということでしょう。★『小さな愛の働き』は、小さいが故に結果がすぐに現れません。そこに無力感が忍び寄ります。ですから「結果がすぐに現れなくても継続する」と心に決めることです。その先に、必ず結実があります。

“たましい”の“いやし”

★使徒ペテロによる、次の言葉があります。(22)キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。(23)ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。(24)さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(25)あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。★ここでペテロは「いやされた」という言葉を用い、同時に「たましいの牧者」という言葉も用いています。この二つの言葉を繋げますと、ここでペテロが語っている主題は「たましいのいやし」と考えられます。このことを踏まえて、更に文脈をさかのぼりますと、主イエスの十字架刑による贖罪が語られています。加えて、ここで用いられている「いやす」という動詞は、もっぱら「病気のいやし」のために用いられます。★以上のことを踏まえますと、「たましい」の持つ意味の広さを調べる必要がありますが、一つ確実に言えることは、主イエスによって与えられる救いは、わたしたちの「傷ついたたましい」を「いやす」働きをも含む、ということです。逆に言いますと、「たましいの牧者であり監督であるかた」から切り離された「たましい」は「傷ついている」ということです。もちろん、そのことに、ほとんどの人達は気づいていませんが…。創造主を知り、主イエスを通して創造主の下に立ち返ることは、本当に素晴らしいことなのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver