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“たましい”の“いやし”

★使徒ペテロによる、次の言葉があります。(22)キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。(23)ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。(24)さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。(25)あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。★ここでペテロは「いやされた」という言葉を用い、同時に「たましいの牧者」という言葉も用いています。この二つの言葉を繋げますと、ここでペテロが語っている主題は「たましいのいやし」と考えられます。このことを踏まえて、更に文脈をさかのぼりますと、主イエスの十字架刑による贖罪が語られています。加えて、ここで用いられている「いやす」という動詞は、もっぱら「病気のいやし」のために用いられます。★以上のことを踏まえますと、「たましい」の持つ意味の広さを調べる必要がありますが、一つ確実に言えることは、主イエスによって与えられる救いは、わたしたちの「傷ついたたましい」を「いやす」働きをも含む、ということです。逆に言いますと、「たましいの牧者であり監督であるかた」から切り離された「たましい」は「傷ついている」ということです。もちろん、そのことに、ほとんどの人達は気づいていませんが…。創造主を知り、主イエスを通して創造主の下に立ち返ることは、本当に素晴らしいことなのです。
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