牧師のページ

人間の中に入り込んでいる「罪」について

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★29日(金)の朝のニュースで「松橋事件」のことが報道されていました。1985年に熊本県松橋(まつばせ)町(現・宇城市)で男性が殺害され、その犯人として殺人罪が確定し、服役した宮田浩喜(こうき)さん(85)に対する再審が行われた結果、溝国禎久(よしひさ)裁判長は「宮田さんが犯人であることを示す証拠はない」として、殺人罪について無罪を言い渡したのです。★朝日新聞の記事によりますと、捜査段階で宮田さんは自白してしまいましたが、公判途中で否認に転じたのです。今であれば、密室で行われる取り調べ時の自白行為に対しては、その信憑性が厳しく問われて当然なのですが、当時はそうではなかったのです。★今回のことは、裁判員制度ができたことによる副産物とも言われています。あらかじめ、裁判における論点を明確にするため、検察側が所有している証拠が弁護側にも開示されるということになったのです。★この事件に対してもこの手続きが用いられ、宮田さんが「犯行後に燃やした」と供述したシャツの袖が見つかり、自白の信憑性に疑問符が付き、2016年に熊本地裁は、「自白については、有罪を維持できるほどの信用性を認められない」と再審開始を決定しました。溝国裁判長は「犯罪の証明がない」と結論づけたものの、宮田さんへの謝罪や過去の裁判で判断を誤ったことへは言及しなかったとのことでした。★「もしわたしが宮田さんであったら…」と考える時、様々な思いが心の中を巡りますが、一点だけ語りたいと思います。「権力を持つ者」が、その権力を行使する時に誤った場合、その「権力を持つ者」はどうすべきなのか。そのことを言語化していないことが英知だとするなら、その英知を逆手に取る人間のずるさが「罪の本質」だと思います。

愛の律法について

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★新約聖書の中から「」という言葉を含む聖書個所を探し出しますと、真に沢山の箇所が登場してきます。Ⅰコリント13章などはすぐに思い出されることでしょう。しかし、多くのキリスト者は、即座に「愛せない」という思いを持ちます。誤解を恐れないで語りますと、この反応は私たちの実態を表していますので、この反応自体はおかしなことではありません。★そのように理解した上で、パウロの言葉を持ち出しますと、パウロは「愛を追い求めなさい」と勧告します。つまり、私たちキリスト者に対して「愛せない」即ち「私には愛がない」という状態に留まり続けないようにとパウロは勧告するのです。★このように語りますと「再び律法主義が求められている」と意見したくなるかもしれませんが、その意見は的を得ていないのです。このことを説明します。「律法主義」とは、「自力」で律法を守ることによって、主なる神様の御前に自らを義としようとする生き方のことです。キリスト者はそのような生き方から完全に解放されたのです。とは言え、被造世界の管理者である私たちから律法が取り去られたわけではありません。★聖書の御言葉から分かる事は、「愛がない私が」与えられた「聖霊の働き」によって「愛の実を結ぶ者に変えていただける」ということです。律法主義との比較で言えば、キリスト者は聖霊なる神の力によって律法のゴールである愛の律法を守らせていただき、既に義とされていることが世にも見えるようになることです。★ここで重要なことは、キリスト者は既に「愛せない事を赦されている」者として、「聖霊なる神の働きによって結ぶ愛」を追い求めて生きるのです。

福音書が記す「神の国」と「天国」について

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★今日は、このコラムで、キリスト教で語られる神の国」と「天国」との相違について書き記しておきたいと思います。福音書を読みますと次の御言葉に出会います。一つは「バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、『悔い改めよ、天国は近づいた。』(マタイ第3章1,2節)であり、もう一つは「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコ第1章15節)です。★この両者は同じことを語っているはずですので天国」とは「神の国」のはずです。何故この違いが生じたのか、その理由として私が採用しているのは次の事です。★マタイによる福音書はユダヤ人に向けて書かれた福音書です。そのユダヤ人は、「主の名を、みだりに唱えてはならない」という十戒に従い、旧約聖書で「ヤーヴェ」という言葉が出て来ると「アドナイ」と読み替えました。それと同じように、マタイは、現在的な「神の国(=支配)」という意味が強い例外を除いて「」を「」に読み替えたのではないか、という解釈です。★この解釈に立ちますと、いわゆる「天国」とは、死んだキリスト者が行く待合室のこととなり、それに対して、「神の国」とは、世の終りに登場する、創造の御業の完成としての「神の国」のことになります。★この意味で言えば「天国」に行ったキリスト者が「神の国」に入れないということは起きませんので、葬儀の際に「天国」が語られることは当然ですが、私としては「神の福音」の最終的なゴールは、「神の国」と「死からの復活」であることを強調します。

知恵を最初に置くことの意味

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★まずは箴言第4章の言葉です[01]子供らよ、父の教を聞き、悟りを得るために耳を傾けよ。[02]わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。わたしの教を捨ててはならない。[03]わたしもわが父には子であり、わが母の目には、ひとりのいとし子であった。[04]父はわたしを教えて言った、「わたしの言葉を、心に留め、わたしの戒めを守って、命を得よ。[05]それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。[06]知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。
[07]知恵の初めはこれである、知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ。[08]それを尊べ、そうすれば、それはあなたを高くあげる、もしそれをいだくならば、それはあなたを尊くする。[09]それはあなたの頭に麗しい飾りを置き、栄えの冠をあなたに与える」。★注目したいのは、「悟り」や「教訓」や「戒め」と呼ばれる「知恵」を最初に「得る」事が勧告されている事です。このことは、現代風に翻訳すれば、行動を起こす前に「ビジョン」とか「ミッション・ステートメント」を第一に置くことと同じ構造です。★現代人は「人生、生きてみなければ分からない。何かに縛られるよりは、大胆に船出しよう!」という類いの言葉が「自由に生きる」ことの土台であると考えるのではないかと推察します。★これに対してキリスト者は、「知恵」を通して「進むべき方向」と「壁として登場するであろう敵(?!)」をあらかじめ知る事が出来ます。もちろん、同時に「戦うための武器すらも!」
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