人間の中に入り込んでいる「罪」について
31/03/19 00:00
★29日(金)の朝のニュースで「松橋事件」のことが報道されていました。1985年に熊本県松橋(まつばせ)町(現・宇城市)で男性が殺害され、その犯人として殺人罪が確定し、服役した宮田浩喜(こうき)さん(85)に対する再審が行われた結果、溝国禎久(よしひさ)裁判長は「宮田さんが犯人であることを示す証拠はない」として、殺人罪について無罪を言い渡したのです。★朝日新聞の記事によりますと、捜査段階で宮田さんは自白してしまいましたが、公判途中で否認に転じたのです。今であれば、密室で行われる取り調べ時の自白行為に対しては、その信憑性が厳しく問われて当然なのですが、当時はそうではなかったのです。★今回のことは、裁判員制度ができたことによる副産物とも言われています。あらかじめ、裁判における論点を明確にするため、検察側が所有している証拠が弁護側にも開示されるということになったのです。★この事件に対してもこの手続きが用いられ、宮田さんが「犯行後に燃やした」と供述したシャツの袖が見つかり、自白の信憑性に疑問符が付き、2016年に熊本地裁は、「自白については、有罪を維持できるほどの信用性を認められない」と再審開始を決定しました。★溝国裁判長は「犯罪の証明がない」と結論づけたものの、宮田さんへの謝罪や過去の裁判で判断を誤ったことへは言及しなかったとのことでした。★「もしわたしが宮田さんであったら…」と考える時、様々な思いが心の中を巡りますが、一点だけ語りたいと思います。「権力を持つ者」が、その権力を行使する時に誤った場合、その「権力を持つ者」はどうすべきなのか。そのことを言語化していないことが英知だとするなら、その英知を逆手に取る人間のずるさが「罪の本質」だと思います。