牧師のページ

「人をさばくな」という勧告を聞き取るにあたって


★今日は、主イエスが語られた次の言葉を聞き取ります。「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」読んでの通り、大変簡潔な勧告です。そして、簡潔ということは、多くの場合、聞き取る側がよく考えよ、ということです。★この勧告を考える際に、大きく二つのことが問題になります。第一の問題は、全てのさばきが禁じられているのか、それとも、さばきの種類を考えることが求められているのか、ということです。第二の問題は、「誰に」自分がさばかれないためなのか、という問いです。★これだけ考える要素が多い場合、基本的には、まず前提を置くことになります。もちろん文字通りをそのまま受け取り、それが可能かどうかは別として、「自分は人をさばかない」と決めて生きることも考えられます。ただこの場合、例えば、裁判官になることや、今日で言う裁判員になることは「さばく」ことに含まれると判断することになります。しかし、あくまでもわたしの判断ですが、この姿勢は、法治国家のあり方を最終的に否定する形となり、社会的責任の放棄という事態に至るように思います。★それでは、まず、どのような前提を置くのでしょうか。①この言葉を隣人との関係で読み取る。②この言葉を主なる神様との関係で読み取る。③①と②の視点をそれぞれに考えた上で、主イエスは、両者共に考え至るようにと意図しておられたと考える。今回は、この順序を踏まえて聞き取っていきたいと思います。

一日の苦労は、その日一日だけで十分


★今日は主イエスの語られた次の言葉です。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」★読んでの通り、この言葉は「だから」と始っています。少し戻りますが、これと同じ語り出しは「だから、何を食べようか、何を飲もうか‥」とあります。ということは、文脈から判断すれば、今日のこの言葉もまた次の言葉を受けていると読むことができます。その言葉とは、「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」★このように言葉が繋がることがわかりますと、注目すべき言葉は「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草‥」というこの個所です。順序を変えて言えば、「あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、きょう、神はこのように装って下さる。」となります。この言い換えから聞き取れる言葉はこうです。「主なる神様は、野の花に対して、今日という一日の中で、決して手を抜かず、最善をなしてくださる。」ということです。主イエスの論理で言えば、この言葉を私たち一人一人に当てはめることが出来ます。つまり「主なる神様は、わたしに対して、今日という一日の中で、決して手を抜かず、最善をなしてくださる。」ということです。だとすれば、わたしたちの側でも、今日という一日に集中すればよいことになります。★ですから、「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」という結論になるのです。
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