一日の苦労は、その日一日だけで十分
07/06/09 00:00
★今日は主イエスの語られた次の言葉です。「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」★読んでの通り、この言葉は「だから」と始っています。少し戻りますが、これと同じ語り出しは「だから、何を食べようか、何を飲もうか‥」とあります。ということは、文脈から判断すれば、今日のこの言葉もまた次の言葉を受けていると読むことができます。その言葉とは、「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」★このように言葉が繋がることがわかりますと、注目すべき言葉は「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草‥」というこの個所です。順序を変えて言えば、「あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、きょう、神はこのように装って下さる。」となります。この言い換えから聞き取れる言葉はこうです。「主なる神様は、野の花に対して、今日という一日の中で、決して手を抜かず、最善をなしてくださる。」ということです。主イエスの論理で言えば、この言葉を私たち一人一人に当てはめることが出来ます。つまり「主なる神様は、わたしに対して、今日という一日の中で、決して手を抜かず、最善をなしてくださる。」ということです。だとすれば、わたしたちの側でも、今日という一日に集中すればよいことになります。★ですから、「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」という結論になるのです。