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「承認欲求」とキリスト教信仰

★最近「承認欲求」という言葉をよく聞きます。「大辞林」によりますとこの言葉の意味は「他人に自分の存在や考えを認められることを求める社会的欲求」と記されています。★この定義の中で第一に注目するのは、「社会的欲求」という言葉です。第二に、大きな視点からの説明として「自分の存在が認められること」です。第三に、その具体例として「自分の考えが認められること」です。★そうしますと「社会的欲求」という言葉が伝えているのは、まず、人間が「社会的存在」であること、つまり「一人」で生きているのではない、ということです。自らの傍らに、一人以上の別人格が在しているのです。次に、人は、その別人格(達)との出会いの時に「自分の存在が認められること」を欲しているのだ、というです。そして、人は「自分の考えが認められる」時「自分の存在が認められた」と認知し「社会的欲求」が満たされることなります。★そうしますと、自分にとって「社会的欲求」が満たされるためには「自分の考えが認められる」ことが重要になります。そこで、ここで言う「考え」のことを「自分という存在を相手に伝えるための言葉」と言い換えてみましょう。そうしますと、この中には「自分は何が好きなのか」という言葉から始まり「自分は何を支えにして生きているのか」という言葉にまで至ります。★「自分という存在」を乗せた言葉が行き交っている日常生活の中、その言葉の持つ「重み」に気付き、対応してくれる人たちがどれほど多くいるのでしょうか?★「自分という存在」を丸ごと支えてくださる創造主を持つキリスト教会に託された使命を再確認させられます。

律法主義から解放されているのだから、律法を、生きるためのガイドラインとする

★キリスト教信仰にとって、最も基本的で重要なことを再確認致します。キリスト教で「救い」と語る場合、最終的な意味は、言葉を絞って言いますと「世の終わり」の時に設定されている「最後の審判」の時に「無罪とされる」ことです。この時「無罪とされた者」達が「永遠の命」を与えられ「神の国」を相続します。★「最後の審判」の時に「無罪とされる」根拠は「その人が律法を完全に守った」ということです。この時重要なのは「キリスト者は、主イェスにおいて、既に完全に律法を守った者と見なされている」ということです。これが、驚くべき「信仰義認」の「恵み」なのです。★使徒パウロが一部のユダヤ人キリスト者との間で戦ったのが、この「律法を完全に守る」という点です。何故なら、一部のユダヤ人キリスト者達が「救われるためには、割礼を受けることが必要である」と主張したからです。このように、「救われるためには、律法を守ることが必要である」という考え方を「律法主義」と呼びます。★キリスト教会において、この「律法主義」を退け、「信仰義認」を強調するあまり、一部のキリスト者の中に、期せずして、あたかも「救いを受け取ったキリスト者には律法は不要である」というような思いが根づいてしまいました。★そこで、確認します。「律法」は「神の国の倫理」ですから「救われるために必要なのではなく、救われた者のために必要なのです」。つまり、キリスト者は「信仰義認」の「恵み」により「既に、神の国の住人」とされているのですから「神の国の倫理(律法)を生きる」のです。

キリスト教信仰の実体として「柔和な人」となるには

★山上の説教にある「幸い」の教えに登場する「柔和な人」について考えます。
(05)柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
★この主イェスの言葉は詩篇第37篇をその根拠とすると講解されています。そこで、詩篇第37篇を読んでみますと確かに11節にこう記されています。
(11)しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。
★この11節の冒頭が「しかし柔和な者は」と始まっていますので、逆接の判断に基づき10節以前を読みますと「柔和な者」の対局が「悪しき者」であることが分かります。そこで、1節~10節に語られた「悪しき者」の対局が「柔和な者」の説明になると解釈することが出来ます。★そのように解釈して「柔和な者」の説明を拾いますと、次のように語られています。まず総じて言えば、「柔和な者」とは「悪をなす者のゆえに、心を悩まさない者」です。★続いて、詳細に言えば「柔和な者」とは①「主に信頼して善を行う者」です。「柔和な者」とは②「主によって喜びをなす者」です。「柔和な者」とは③「自分の道を主にゆだね、主に信頼する者」です。「柔和な者」とは④「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望む者」です。「柔和な者」とは⑤「怒りをやめ、憤りを捨てる者」です。★ここでパウロの言葉を持ち出せば、「御霊の実は、愛、喜び…柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」とあります。キリスト教信仰の実体として「柔和な人」となるには、聖霊によって「御霊の実」を結ばせていただくことが鍵となります。

「当事者意識」は「愛」から生まれる

★南ユダ王国がバビロンに捕囚される前の出来事─預言者イザヤと国王ヒゼキヤの対話─がイザヤ書39章に記されています。(5)そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「万軍の主の言葉を聞きなさい。(6)見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。(7)また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう」。(8)ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。
★この両者の対話の中に現れていることは一体何でしょうか?私は、主からの言葉に対するヒゼキヤ王の姿勢に注目しました。ヒゼキヤ王は「あなたが言われた主の言葉は結構です」と語りました。ヒゼキヤ王がこのように答えた理由は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」とヒゼキヤ王が考えたからです。★このヒゼキヤ王の姿勢を言葉で言えば「そのことに関して、自分は当事者ではない」という考え方です。極端に聞こえるかも知れませんが、人がこの考え方に立ちますと、その人は「行動しなくなる」のです。★使徒パウロはローマ在住のキリスト者達に向けて語りました。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」もちろん、「どう行動するのか」には知識や知恵が必要ですし「しんどい」ことだとも自覚しますが、キリスト者こそ、原理的に「相手の立場に立つ生き方を実践する者」とされていると信じます。
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