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「承認欲求」とキリスト教信仰

★最近「承認欲求」という言葉をよく聞きます。「大辞林」によりますとこの言葉の意味は「他人に自分の存在や考えを認められることを求める社会的欲求」と記されています。★この定義の中で第一に注目するのは、「社会的欲求」という言葉です。第二に、大きな視点からの説明として「自分の存在が認められること」です。第三に、その具体例として「自分の考えが認められること」です。★そうしますと「社会的欲求」という言葉が伝えているのは、まず、人間が「社会的存在」であること、つまり「一人」で生きているのではない、ということです。自らの傍らに、一人以上の別人格が在しているのです。次に、人は、その別人格(達)との出会いの時に「自分の存在が認められること」を欲しているのだ、というです。そして、人は「自分の考えが認められる」時「自分の存在が認められた」と認知し「社会的欲求」が満たされることなります。★そうしますと、自分にとって「社会的欲求」が満たされるためには「自分の考えが認められる」ことが重要になります。そこで、ここで言う「考え」のことを「自分という存在を相手に伝えるための言葉」と言い換えてみましょう。そうしますと、この中には「自分は何が好きなのか」という言葉から始まり「自分は何を支えにして生きているのか」という言葉にまで至ります。★「自分という存在」を乗せた言葉が行き交っている日常生活の中、その言葉の持つ「重み」に気付き、対応してくれる人たちがどれほど多くいるのでしょうか?★「自分という存在」を丸ごと支えてくださる創造主を持つキリスト教会に託された使命を再確認させられます。
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