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声の主は見えないけれど

★今朝は、先ず、預言者エゼキエルに託された主なる神様の言葉を聞きます。エゼキエル第33章の中から、10節、11節です。
(10)…人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。(11)あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。★主なる神様は、この御言葉の最後で「イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。」と語っておられます。ここから明確に分かりますように、主なる神様は、「イスラエルの家」が「生きる」ことを願っておられる、ということです。★当然の事ですが、この主なる神様の願いは、新約聖書で啓示されている主イェスの福音そのものに継承されています。★(16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。(17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。(18)彼を信じる者は、さばかれない。★ルターが好んで用いる表現で言えば、悪魔は、「イスラエルの家」が「滅びる」ことを願っているのです。ですから、惑わされてはなりません。どんな状況に陥ろうと、「生きよ!」との声が聞こえてくる方へと私たちキリスト者は向かうのです。

キリスト教会は「神の言」を語りつづける

★パウロは愛弟子であるテモテに対して次のように語っています。(Ⅱテモテ2:08)ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。(09)この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。(10)それだから、わたしは選ばれた人たちのために、いっさいのことを耐え忍ぶのである。それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。★この箇所から推察できますように、パウロは今「鎖につながれています。」そのパウロが獄中で実践していることは「いつでも、ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを思う」いうことです。次に推察できますのは、パウロ自身は投獄という事実を「耐え忍んでいる」わけですが、その忍耐を支えているのは、投獄されていない多くの同労者たちによって「神の言」が宣べ伝えられているという事実です。しかも、パウロの論理によれば「選ばれた人たち」がいる限り、「神の言はつながれることがない」という確信がパウロにはあるのです。★キリスト教会が伝道を推進する根拠も同様です。「キリスト・イエスによる救を受け、また、それと共に永遠の栄光を受ける」人達が誰であるかは主なる神様のみぞ知ることですが、「選ばれた人たち」がいる限り、「神の言はつながれることがない」のです。だとすれば、キリスト教会は「イエス・キリストを、いつも思って、神の言」を語り続けるのです。
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