牧師のページ

御霊(聖霊)が下った日におぼえたいこと

★今日はペンテコステを記念する礼拝です。主イエスが約束してくださった言葉の通りに、聖霊が下ったことを記念します。★最初のペンテコステの日以来継続している御霊の働きを主イエスの言葉から確認します。
[07]しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
[08]それ(=助け主)がきたら、罪と義とさばきとについて世の人の目を開くであろう。
[09]
罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
[10]
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
[11]
さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。
[12]
わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
[13]
けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう
[14]
御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。★御霊なる神様の主権的働きに信頼しましょう!

義しいことを行う時の心の置き所

★私たちは、福音書を通して、主イエスが語られたキリスト者の生き方の基準を知っています。一つの例をマタイ5章から引用します。「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。」★多くの説教者は、主イエスの命ぜられたこの基準は、「実行不可能である」と語ります。つまり、主イエスはここで、「実行不可能」な基準を定めていると解釈してしまうわけです。しかも、この解釈の延長線上には、「0か1か」という二分法に立ち、自分はこの最高の基準に到達できていないという不全感に、いつも、さいなまれてしまう生き方があります。これはとても苦しいことです。★ここで、角度を少し変えてこの命令を考えてみましょう。こういうことです。この言葉は、自分自身の行為によって、自分が、高慢の落とし穴に落ちないための防護壁になっている、という解釈です。★使徒パウロは、ガラテヤ書の中でこう語っています。「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。」★「隣人に与えて生きる」という生き方は義しいのです。そして、主イエスによる倫理基準があるおかげで、キリスト者は、「自分の行為を人と相対的に比較して自分を相手より高く位置づけるという罠」を回避できるのです。★聖書の律法は、偽善でもなく、売名行為でもなく、自己満足でもなく、高慢になるのでもなく、義しいことを行う時の心の置き所を定めてくれるのです。

愛の律法の実践内容

★レビ記19章に以下の御言葉があります。[09]あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。[10]あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。★もう少し詳細になりますと申命記24章です。[19]あなたが畑で穀物を刈る時、もしその一束を畑におき忘れたならば、それを取りに引き返してはならない。それは寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。そうすればあなたの神、主はすべてあなたがする事において、あなたを祝福されるであろう。[20]あなたがオリブの実をうち落すときは、ふたたびその枝を捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。[21]またぶどう畑のぶどうを摘み取るときは、その残ったものを、ふたたび捜してはならない。それを寄留の他国人と孤児と寡婦に取らせなければならない。★そして、この律法を実行する根拠について言えば、次のように言われています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったことを記憶しなければならない。それでわたしはあなたにこの事をせよと命じるのである。」★主なる神様のこの言葉は、律法の背後に“共感”があることを告げています。適用的に言えば、「自分の受けた痛みを、隣人への自分の行動の中に生かしなさい」となりますでしょうか。この視点で言えば、愛の律法の実践内容とは、その種が、既に自分自身の中にあるようです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver