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義しいことを行う時の心の置き所

★私たちは、福音書を通して、主イエスが語られたキリスト者の生き方の基準を知っています。一つの例をマタイ5章から引用します。「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。」★多くの説教者は、主イエスの命ぜられたこの基準は、「実行不可能である」と語ります。つまり、主イエスはここで、「実行不可能」な基準を定めていると解釈してしまうわけです。しかも、この解釈の延長線上には、「0か1か」という二分法に立ち、自分はこの最高の基準に到達できていないという不全感に、いつも、さいなまれてしまう生き方があります。これはとても苦しいことです。★ここで、角度を少し変えてこの命令を考えてみましょう。こういうことです。この言葉は、自分自身の行為によって、自分が、高慢の落とし穴に落ちないための防護壁になっている、という解釈です。★使徒パウロは、ガラテヤ書の中でこう語っています。「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。」★「隣人に与えて生きる」という生き方は義しいのです。そして、主イエスによる倫理基準があるおかげで、キリスト者は、「自分の行為を人と相対的に比較して自分を相手より高く位置づけるという罠」を回避できるのです。★聖書の律法は、偽善でもなく、売名行為でもなく、自己満足でもなく、高慢になるのでもなく、義しいことを行う時の心の置き所を定めてくれるのです。
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