牧師のページ

安んじて主イェスの下に行こう

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★今朝は主イェスが語られた次の言葉です。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。全くその通りと理解できる言葉です。★しかし、これは「比喩」です。つまり、この言葉は、後に続けて「それと全く同じように、(聞き手に伝達したい言葉がここに来る)。」と思考するようにと、聞き手に対する求めがあるのです。★ここから主イェスの語られた次の話を思い起こすことができます。「(10)ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。(11)パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。(12)わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。(13)ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」★ここから、気づきが起こります。私にはこの「パリサイ人」的要素も「取税人」的要素もあります。この内的現実に対して「信仰者の内部矛盾」とか「偽善的信仰」などと「批判的診断」を下すことがありますが、少し視点がズレていると思います。★エゼキエル的に言えば「契約的に」古くて堅い石の心が除かれ、新しい肉の心が与えられたということです。「契約的に」とは、「漸進的に変えられて行く」ということです。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」。この祈りを日々重ねましょう。

義に飢え渇く人たちは満ち足りるようになる

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★アメリカに於いては大統領選挙の結果を受けて、国内が二分された状況が続いています。デモ行進の中に「トランプは私の大統領ではない!」というプラカードを持った若者達の姿があります。その理由は様々でしょうが、大きく言えば「義」の感覚が背後にあるように思います。クリントン候補においても「義」の問題があり、一気に信用度を落としてしまいました。★韓国においても大統領に係る「義」の問題が持ち上がっています。受験を終えた多数の高校生までもがローソクを持ってデモに参加しています。★これらの姿を見て思い起こされた御言葉が、これです。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」取り分け、私の心を捕えたのは「飢えかわいている」という動詞です。「飢え渇くほどに」人が「義」を求めるとは、一体どのような意味なのでしょうか?主イェスの時代には、熱心に「義」を求めていたパリサイ派の人達がいたのです。★私たちの国では、ある高等裁判所において「一票の格差が3倍以内なら合憲である」という判決が出ています。同じ事実を角度を変えて言えば、選挙の際に、一人の人が3回投票しても選挙違反にならないということです。★乱暴なことは言えませんが、このように考えてくると「義に飢えかわいてしまう」のは、「義」の基準が多数派の利によって変更されてしまうというように「義」の相対化が起きてしまうからではないかと思います。この意味で言えば、主イェスが語る「義」は、創造主が定めた「義」であって、その基準は決して変更さることなく必ず適用される、と聴き取ります。聖なる「畏れ」を持って聞くべき言葉です。

もっとも驚くべき逆説

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★主イェスのお言葉の中で最も驚かされる言葉が「罪の女」と呼ばれている女性とパリサイ人シモンとの対比の中で登場しています。
[36]あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。[37]するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、[38]泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。[39]イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」(ルカ第7章)。
★主イェスはこの女性の行為に対して次のように説明します。
[47]…この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。[48]そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
★ここで主イェスが語っておられることはこういうことです。主イェスに対する行為の中にどれだけの愛を込めるのかは、主イェスが罪を赦す御方であり、事実、主イェスは、自分ほどの罪人でさえ赦して下さるのだという「信仰的赦され理解度」に比例するのだ、ということです。★聖書が啓示する意味で自分を「罪人である」と理解出来れば出来るほど、人間的な自尊心は絶望的に激減しますが、そのどん底で福音信仰に立つなら、主イェスからいただく「赦し」の大きさが分かり「感謝の応答」へと結実する、ということです。
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