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安んじて主イェスの下に行こう

sks-50
★今朝は主イェスが語られた次の言葉です。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。全くその通りと理解できる言葉です。★しかし、これは「比喩」です。つまり、この言葉は、後に続けて「それと全く同じように、(聞き手に伝達したい言葉がここに来る)。」と思考するようにと、聞き手に対する求めがあるのです。★ここから主イェスの語られた次の話を思い起こすことができます。「(10)ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。(11)パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。(12)わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。(13)ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。」★ここから、気づきが起こります。私にはこの「パリサイ人」的要素も「取税人」的要素もあります。この内的現実に対して「信仰者の内部矛盾」とか「偽善的信仰」などと「批判的診断」を下すことがありますが、少し視点がズレていると思います。★エゼキエル的に言えば「契約的に」古くて堅い石の心が除かれ、新しい肉の心が与えられたということです。「契約的に」とは、「漸進的に変えられて行く」ということです。「神様、罪人のわたしをおゆるしください」。この祈りを日々重ねましょう。
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