牧師のページ

主イェスが語られた羊とやぎのより分けについて

★今日は主イェスが語られた次の御言葉を考えたいと思います。
[31]人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。[32]そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け[33]羊を右に、やぎを左におくであろう。[34]そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。[35]あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、[36]裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。[37]そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。[38]いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。[39]また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。[40]すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
★ここでエゼキエル書の次の言葉を思い起こしましょう。
[26]わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。[27]わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる
★救いが恵みの働きであると信じて律法に生きようとする者は、必ず愛の律法を生きるように変えられるのです。

「新約聖書を中心にしたキリスト教」という視点

★今日は、敢えて「新約聖書を中心にしたキリスト教」という言葉を用います。この表現が意味するのは、ごく単純化してしまいますが、キリスト教の救いとは「天国へ入る事なのだ」となります。★この視点に立ちますと、旧約聖書の創世記を読む場合、最初の人アダムが、創造主なる神が語られた「善悪を知る木からは取って食べてはならない。」という命令に逆らった、創世記第2章の出来事に焦点が当たります。★そこから、一般には「原罪」という言葉が使われ、この「原罪」を持って生きる私たち人間(罪人)を救う為に、メシヤ(救い主)であるキリストが、この世に来て下さった(受肉して下さった)と語られます。結果、多くのキリスト者は、この事に疑問を挟むことはありませんし、その通りであると信じています。★そのようにお伝えした上で問います。それでは「新約聖書を中心にしたキリスト教」は、大きく、創世記第1章の啓示をどのように読むのでしょうか?この問いを持ち出す事の意味は何でしょうか?★角度を変えましょう。「新約聖書を中心にしたキリスト教」では「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」という御言葉と「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」という御言葉とを、救いをもたらす信仰の中で、どのように位置付けるのでしょうか?

主なる神やイエス・キリストを「愛する」とは?

★今聞き取っていますペテロの手紙に、次の言葉がありました。
[08]あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している(以下省略)。
★ペテロは「αγαπαω」という動詞を用いて「彼(=イエス・キリスト)を愛している」と語ります。主イェスから「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と問われた時のペテロを思い起こします。★ここで、よく考えてみますと「αγαπαω」は、どちらかと言えば、主なる神様が私たちを愛してくださることを語る時の動詞です。ですから、ヨハネは「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛(αγαπη)がある。」と語ります。★この「」の意味で言いますと「神を愛する」とか「イエス・キリストを愛している」ということは、どちらかと言えば、情緒的であることに力点がないのです。★主イェスは十戒を2つの「」に要約されましたが、「神を愛する」ことについては「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」を「要約」されたのです。ということは、からの戒めに生きることが「神を愛する」ことになるのです。★もちろん「」には情緒が伴っていますが、「神を愛する」とか「イエス・キリストを愛する」という時の「」について、再度お考えいただければと思います。

「CHatGPT」について思うこと

★「CHatGPT」というAI(人工知能)の働きが話題になっています。この働きを古典的な表現で言えば、INPUT(情報の入力)に対するOUTPUT(情報の出力)が、人間の脳の働きに類似したAIを経由しているということです。★わたしは「人間の脳の働きに類似した」という表現を用いましたが、この点が「CHatGPT」を利用する上で、規制を設けるか設けないかという議論を生み出す原因であろうと推察します。★というのは、既に知られていることですけれども「CHatGPT」のOUTPUTの内容が、明らかに誤りである場合が見いだされているからです。しかし、多くの人達は、それはAIの学習不足が原因であって、今後の学習によって精度は高くなると考えています。★さて、医学や心理学の分野の専門家であれば、人間の判断や行動には「心」が深く関係していることがわかっています。ですから、AIの働きには「人間の心の働き」を加味しなければならないはずです。ところが「人間の心と脳の関係」は依然「未知」なのです。恐らくAIの研究者は、このことも既に視野の中に入れ込んでいるとは思います。★わたしたちが自覚しておくべきことは「類似した機能」ということは「超複雑(無限)な人間の脳と心の機能の一部分を切り取って、合理的に効率化している」という意味であることです。★蛇足ですが「π」という数を「3.14」として計算した結果で大きな問題が起きなければ、それて良いのではという領域と、そうではない領域があります。人間の世界は「3.14」でも良い世界と「π」でなければならない世界が複雑に入り組んでいると思います。

歴史の中にペンテコステ(聖霊降臨)が起きた結果(ほんの一部)です!

★キリスト者の出発点はこの御言葉です。

(38)そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。
★別の角度からの御言葉による確認です。
(03)そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
★もう一つ別の角度からの御言葉による確認です。
(14)すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
(15)あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
★私たち、キリストの幸い!
(09)しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
(10)もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
(11)もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

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