牧師のページ

キリスト者の生き方の実は神の国へと連続するのです

pcd10096
★先週は講壇交換で奥村喜樹先生が、エレミヤ書第29章17節に基づいて説教して下さいました。まずその聖書箇所です。

(04)「万軍の主、イスラエルの神は…バビロンに捕え移させた者に、こう言う、
(05)あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
(06)妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。
(07)わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。

★喜樹先生の説教の一つの論点を言えば、私の解釈と表現になりますが、やがて到来するであろう約束の地カナンへの帰還の際、イスラエルの民が捕囚先で忠実に生きたことによって体得した事柄が生かされることになる、というものでした。★この論点は、イスラエルの民と「約束の地カナン」との関係がキリスト者と「神の国」の関係の比喩であると解釈する視点に当てはまります。私たちキリスト者がこの世で生きた結果は「終末の時」に消え去ってしまうのではなく、その時到来する「神の国」へと連続してゆくことになるのです。★主の御言葉に聞きつつ、コツコツと忠実に生きる事が生む実は、永遠的な価値があるのです。

キリスト者のこの世にあっての立ち位置

pcd10094
★わたしたちの教会は「被造世界の管理」という言葉や「社会的責任」という言葉を聞く機会が多いと思います。その理由は、歴史の出発点である「創造の御業」を啓示する創世記の出来事に多く耳を傾けるからです。啓示の順番から言えば、創造の御業が来ます。人間に焦点を当てれば、次の御言葉─「被造世界の管理」─です。
[28]神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(被造世界の管理命令)。
★礼拝説教の中でも語っていますが「最初の人アダム」が「アダム契約」の内容である次の言葉─「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」に違反しても、創造主なる神は「被造世界の管理」という人間の使命を人間からは取り上げなかったのです。★結果、自らを「創造主なる神様」と同等の位置に置いて生きてしまう私たち人間が、この「被造世界の管理」を担っているわけです。★この意味から「大祭司の祈り」として知られる、次の主イェスの言葉を読みます。[15]わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。[16]わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。[17]真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。★救いにあずかったキリスト者は「世のものではない」存在でありつつ同時に「世から取り去られず、神により悪しき者から守られつつ、神の御言葉の真理によって聖別されつつ」被造世界の管理責任を果たすのです。

「みこころが…地にも行われますように。」

pcd10069
★主の祈りの第2は「御国がきますように。」でした。この「御国」には2つの意味があるとお伝えしました。一つは「神の支配」であり、もう一つは、主イェスの再臨と関係する「創造の御業の完成としての神の国」です。★この理解を前提して第3の祈り「みこころが…地にも行われますように。」の語る「みこころ」の意味をお伝えしました。一つは、主イェスが語られた「創造主なる神のみこころ」でした。主イェスの言葉を引用しますと「わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。」です。二つ目はエゼキエル書第36章から引用しますと「わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」です。★この二つ目は「キリスト者をして神の律法を行わせる」と言い換えられました。それでは、この二つ目の「創造主なる神のみこころ」は何を意味しているのでしょうか?最も大きな啓示の視点から言いますと「神の律法」とは狭い意味で「創造主なる神のみこころ」なのです。ですから「神の律法」は「被造世界の管理責任を生きる人間のガイドライン」なのです。そこで「創造主なる神」は、視聴覚教材である神の民イスラエルに対して「神の国」を啓示的に指し示す「カナンの地」を与え、その「カナンの地」で、神の民イスラエルが「如何に生きたら良いのか」という「神の律法」を与えられたのです。★「みこころが…地にも行われますように(=神の支配)」という、広い意味での「創造主なる神のみこころ」は、キリスト者を通して実行されているのです

個人主義のためではなく個人の信仰を確立する為に!

pcd10068
◆パウロの言葉の中から「わたしたちのために」という言葉を拾い出しました。

[13]キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。(ガラテヤ3章)
[14]このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス2章)

[23]…「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
[24]わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。(ローマ4章)
[08]しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5章)

[26]御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(ローマ8章)

[34]だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ローマ12章)

◆この「わたしたちのために」という言葉は、私たちの信仰を個人的な領域に閉じこめる為のものではなく、各自が自立した信仰を確立する為の言葉です。

死のからだでありつつ義とされていることが聖化の出発点

sna-047
★少々長い文章の書き出しです。信仰によって義とされ、律法主義から解放され、救いを受け取ったキリスト者は、自分自身が「死のからだ」であることを自覚して聖化の歩みの土台である律法を生きるのです。★パウロが「死のからだ」の特徴を次のように語っています。「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の法則(律法)があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」★ですから理屈を言えば、キリスト者は「死のからだ」であるが故に、救いを受け取った後、聖化の歩みが必要なのです。★このことが正しく理解されていませんと、ルターが語る次の言葉が理解できません。★悪魔は、しばしばわずかな罪をつかまえる。そうやって悪魔は、あなたが生涯をかけてしてきたよい行いをすべて覆い隠してしまうので、あなたは自分の内に、その同じ罪しか見ることができなくなる。しかし、このようなことは、あなたが悪魔との議論にはまってしまったときに起るのである。だから、キリスト者は、このような悪を及ぼす思いを軽蔑するようにして、まるごと克服しようとするのはやめなさい。なぜなら、悪魔は傲慢な霊であるから、軽蔑には耐えられないからである 。しかし、このためには、聖霊と熱心な祈りの鍛練と、また、聖書を誠実に読むことが必要である。なぜなら、悪い思いを克服して心から追い出すのは、人にできる行いではないからである。★キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に信頼するのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver