キリスト者の生き方の実は神の国へと連続するのです

(04)「万軍の主、イスラエルの神は…バビロンに捕え移させた者に、こう言う、
(05)あなたがたは家を建てて、それに住み、畑を作ってその産物を食べよ。
(06)妻をめとって、むすこ娘を産み、また、そのむすこに嫁をめとり、娘をとつがせて、むすこ娘を産むようにせよ。その所であなたがたの数を増し、減ってはならない。
(07)わたしがあなたがたを捕え移させたところの町の平安を求め、そのために主に祈るがよい。その町が平安であれば、あなたがたも平安を得るからである。
★喜樹先生の説教の一つの論点を言えば、私の解釈と表現になりますが、やがて到来するであろう約束の地カナンへの帰還の際、イスラエルの民が捕囚先で忠実に生きたことによって体得した事柄が生かされることになる、というものでした。★この論点は、イスラエルの民と「約束の地カナン」との関係がキリスト者と「神の国」の関係の比喩であると解釈する視点に当てはまります。私たちキリスト者がこの世で生きた結果は「終末の時」に消え去ってしまうのではなく、その時到来する「神の国」へと連続してゆくことになるのです。★主の御言葉に聞きつつ、コツコツと忠実に生きる事が生む実は、永遠的な価値があるのです。
キリスト者のこの世にあっての立ち位置

[28]神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(被造世界の管理命令)。
★礼拝説教の中でも語っていますが「最初の人アダム」が「アダム契約」の内容である次の言葉─「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」に違反しても、創造主なる神は「被造世界の管理」という人間の使命を人間からは取り上げなかったのです。★結果、自らを「創造主なる神様」と同等の位置に置いて生きてしまう私たち人間が、この「被造世界の管理」を担っているわけです。★この意味から「大祭司の祈り」として知られる、次の主イェスの言葉を読みます。[15]わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。[16]わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。[17]真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。★救いにあずかったキリスト者は「世のものではない」存在でありつつ同時に「世から取り去られず、神により悪しき者から守られつつ、神の御言葉の真理によって聖別されつつ」被造世界の管理責任を果たすのです。
「みこころが…地にも行われますように。」

個人主義のためではなく個人の信仰を確立する為に!

[13]キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。(ガラテヤ3章)
[14]このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。(テトス2章)
[23]…「義と認められた」と書いてあるのは、アブラハムのためだけではなく、
[24]わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。(ローマ4章)
[08]しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。(ローマ5章)
[26]御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。(ローマ8章)
[34]だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。(ローマ12章)
◆この「わたしたちのために」という言葉は、私たちの信仰を個人的な領域に閉じこめる為のものではなく、各自が自立した信仰を確立する為の言葉です。
死のからだでありつつ義とされていることが聖化の出発点
