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「新約聖書を中心にしたキリスト教」という視点

★今日は、敢えて「新約聖書を中心にしたキリスト教」という言葉を用います。この表現が意味するのは、ごく単純化してしまいますが、キリスト教の救いとは「天国へ入る事なのだ」となります。★この視点に立ちますと、旧約聖書の創世記を読む場合、最初の人アダムが、創造主なる神が語られた「善悪を知る木からは取って食べてはならない。」という命令に逆らった、創世記第2章の出来事に焦点が当たります。★そこから、一般には「原罪」という言葉が使われ、この「原罪」を持って生きる私たち人間(罪人)を救う為に、メシヤ(救い主)であるキリストが、この世に来て下さった(受肉して下さった)と語られます。結果、多くのキリスト者は、この事に疑問を挟むことはありませんし、その通りであると信じています。★そのようにお伝えした上で問います。それでは「新約聖書を中心にしたキリスト教」は、大きく、創世記第1章の啓示をどのように読むのでしょうか?この問いを持ち出す事の意味は何でしょうか?★角度を変えましょう。「新約聖書を中心にしたキリスト教」では「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』」という御言葉と「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」という御言葉とを、救いをもたらす信仰の中で、どのように位置付けるのでしょうか?
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