牧師のページ

「当事者意識」は「愛」から生まれる

★南ユダ王国がバビロンに捕囚される前の出来事─預言者イザヤと国王ヒゼキヤの対話─がイザヤ書39章に記されています。(5)そこでイザヤはヒゼキヤに言った、「万軍の主の言葉を聞きなさい。(6)見よ、すべてあなたの家にある物およびあなたの先祖たちが今日までに積みたくわえた物がバビロンに運び去られる日が来る。何も残るものはない、と主が言われます。(7)また、あなたの身から出るあなたの子たちも連れ去られて、バビロンの王の宮殿において宦官となるでしょう」。(8)ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」と思ったからである。
★この両者の対話の中に現れていることは一体何でしょうか?私は、主からの言葉に対するヒゼキヤ王の姿勢に注目しました。ヒゼキヤ王は「あなたが言われた主の言葉は結構です」と語りました。ヒゼキヤ王がこのように答えた理由は「少なくとも自分が世にある間は太平と安全があるだろう」とヒゼキヤ王が考えたからです。★このヒゼキヤ王の姿勢を言葉で言えば「そのことに関して、自分は当事者ではない」という考え方です。極端に聞こえるかも知れませんが、人がこの考え方に立ちますと、その人は「行動しなくなる」のです。★使徒パウロはローマ在住のキリスト者達に向けて語りました。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」もちろん、「どう行動するのか」には知識や知恵が必要ですし「しんどい」ことだとも自覚しますが、キリスト者こそ、原理的に「相手の立場に立つ生き方を実践する者」とされていると信じます。
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