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応答的存在としての私達

★箴言第6章にこう記されています。(6)なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。(7)ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、(8)夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める。(9)なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。(10)しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。(11)それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、つわもののようにあなたに来る。★この箴言を「全ての被造物は創造主に対して応答する存在である」という視点から考えてみましょう。箴言が記述する蟻の行動は、通常の表現では「本能的」となります。しかし、今日の視点で言えば、蟻は応答的存在として創造主に託された地上的な命を生かしていると言えます。それに対して「なまけ者」はどうでしょう。蟻とは反対に、創造主に対して応答する存在である自分の命を生かしていないと言えます。★人が自分の持つ応答性を生かせない理由は大きく言って二つあります。第一は、本人自身、自分が創造主に対して応答する存在であるということを知らない場合です。第二は、ちょっと長くなります。自分が創造主に対して応答する存在であることを知りつつも、何らかの理由で応答したくない場合です。いずれの理由であれ、結果は同じです。応答することによって得られる結果を受けとることがない、ということです。★創造主が注目しておられるのは競争原理の結果や、能力の差異から生まれる結果ではないと考えます。本質的なことは、語りかけられた御言葉に対して、与えられた応答性を生きているかどうかなのだと考えます。
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