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ルターが語る「聖化論」として聴き取る

★パウロはピリピ人ヘの手紙第3章12節で次のように語っています。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」★ルターがこの言葉に基づいて語っている言葉を聴いてください。◆信仰者にとって、彼がそれをすでに捕らえたとか、それをまず求める必要はないと思うほど有害なことはほかにない。なぜなら、そこから、多くの人々が逆戻りしたり、確信を深める一方で怠惰にもなり、心がしぼんでしまったり、無気力になったりするからである。◆それゆえに、キリスト者であることを始めた人には、自分はまだキリスト者ではなく、キリスト者になることに向かって探求していると考える義務がある。この命は、義ではなく義とされる途上、健康ではなく健康になる途上であり、実体ではなく生成、休息ではなく訓練である。私たちはまだそれではないが、私たちはそうなるのである。それはまだ済まず、成っていない。だが、それは進行中で、広がろうとしている。それは終りではなく過程である。キリスト者は成長の途中であって、でき上がりではない。◆それゆえに、キリスト者である人は、キリスト者ではない。すなわち、自分がすでにキリスト者になったと思い込んでいる者は、なにものでもない。かえってキリスト者になるべきなのである。◆なぜなら、私たちは天国に向かって手を伸ばしているのであって、まだ天国にいるのではない。そして、すでに天国にいると思い込んでいる者が決して天国ヘ来ることがないのと同様に、天国ヘ向かって手を伸ばし、天国ヘ入ろうと求めている者は、すでに天国にいるのである。この国の働きはこのように不思議なものである。★これはルターの「聖化論」であると、わたしは聴き取ります。
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