主の祈りを祈る時に思うこと
22/01/12 00:00
★今日は、主の祈りが“単純明解な表現”であることの幸いについて書きたいと思います。私にとりまして、“単純明解な表現”とは“包括的な表現”という意味です。★人間的に考えますと、“包括的”であるということは、具体性を欠いた曖昧な状態と考えられてしまいます。たとえば“お茶”という表現は、緑茶なのか、紅茶なのか、はたまた烏龍茶なのか等々。★ここで「御名があがめられますように」という祈りを考えてみましょう。確かに、著名な先生方は「主なる神様の御名が褒め称えられるように」との意味だと言います。私などは、旧約聖書の検討から「神の民によって汚された主なる神様の御名が聖められますように」との意味だと考えます。言葉の上で考えますと、何か一致がなく、正しく祈っているのかどうか、一抹の不安を覚えてしまいます。★しかし、そこがまさに考え所です。「御名があがめられますように」という単純な祈りの意味することが、明確に特定できないのではなく、むしろ、広い解釈的適用を許す祈りなのだと信じるのです。別の言い方をすれば、「総論」を心から祈っているなら、総論の中に含まれる種々の「各論」は、主なる神様の側が、最善にしてくださるという信仰です。★何か自立できていない子供の信仰を推奨しているような気持ちになりますが、恐らく、そうではないと思います。この信仰は、日々、主なる神様の側が、私たちの思いの及ばない領域において、私たちの思いも及ばない御業をなしてくださっているということを信じ告白していることだと考えます。主なる神様に感謝!