思い煩いに囚われた時
03/05/09 00:00
★「あなたがたのうち、だれが思い煩ったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」ここで「寿命」と翻訳された言葉はギリシャ語では「身長」と翻訳される言葉であると言われています。そうしますと、主イエスが語られたこの言葉を問いの形ではなく、叙述文に直せば「人は、思い煩ったからといって、自分の身長をわずかでも延ばすことはできない。」となります。★主イエスが用いられるこの種のレトリックは、驚くほど説得力があります。しかし、私たちの側は、その説得力を知りつつも、なかなか思い煩うことを止めることができません。これもまた聖化の歩みの途上にあるキリスト者の現実です。★しかし、このような現実を踏まえた上で問います。思い煩いに囚われてしまっている中、キリスト者の側には、解放へと向かう道筋はないのでしょうか。この問いに対しては、恐らく様々な提案がなされると思います。そのような提案の中に含まれているかどうか分かりませんが、今日は一つの提案をしたいと思います。それは、主イエスの言葉の中にヒントがあります。主イエスは、思い煩うことと身長を伸ばすことを繋げています。言わば、思い煩うことが栄養で、その栄養を取り入れた結果、身長が伸びるという論理です。このことを応用してみます。思い煩いに囚われている自分に気づいたら、次の問いを考えるのです。「わたしは、このように思い煩うことによって、一体何を手に入れようとしているのであろうか?」という問いです。この問いを考え抜く時、何かが見えてくるなら、それは案外解決することのできる事柄でもあるのです。もちろん特効薬的方法ではありませんが‥‥。