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ルターが明らかにした「信仰義認」の教理が意味すること

★マタイによる福音書に、主イェスが語られた次の言葉が記されています。
[17]わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。[18]よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。[19]それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。[20]わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。★主イェスはこの17節で「わたしは、律法や預言者を廃するためではなく、成就するためにきた」と語っておられます。この主イェスの言葉から、私は、ただ一人、主イェスだけが「主なる神様の要求する基準で律法を実行された」と解釈しています。つまり、主イェスだけが、主なる神様によって「義とされた」のです。★ですから、この「義とされる」という言葉を使うことが出来るのは、主イェスお一人です。★ローマ人への手紙(口語訳がギリシャ語に忠実)から判断しますと、パウロは、主イェスお一人が使うことの出来るこの「義とされる」という言葉を用いて、キリスト者は、「信仰」によって「義とされる」と語っているのです。これが、通常、わたしたちが「信仰義認」として理解している教理が意味することです。
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