牧師のページ

三位一体である創造者を主とするのがわたしたち人間

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★朝日新聞の「折々のことば」に、「鷲田清一」さんのコメント付きで次の言葉が取り上げられました。
『ひとは自分が思っているほど、自分のために生きているわけではない。』

(「言葉が鍛えられる場所」平川克美より)

☆父親の介護を続けるなかで、慣れない調理に苦労し、やがてそれが楽しみにすらなったのに、父が逝くと、とたんに料理をする気が失せた。自分だけのために調理をするのが面倒になった。自分がここにあることの意味は他者から贈られる。そのことを身をもって知った経営者の作家は、「自己決定」「自己責任」といった概念の虚(むな)しさを思う。★このコメントの中の言葉「自分がここにあることの意味は他者から贈られる。」は至言であると思います。聖書の啓示に従えば、私達人間は「交わり」の中に生きるように創造されている存在であります。このことから展開して、私たちは、別人格と結びつく「交わり」の中にあって、自分という人格の持つ意味を確認することができると考えます。★だからと言って、「人間存在の意味や価値は単独では無であり、交わりを形成している集団が与えるものである」と主張しだしたら、これは誤りであると言わなければなりません。真の意味で「交わり」が意味を持つためには、やはり個々の人格が「自己決定権を持つ」とか「自己責任を果す」ということが「交わりの外側で」保証(担保)されている必要があると考えます。★私としては、このような視点は、究極、三位一体である創造者の存在を認め、自分は被造物なのだという理解(認知)が前提になるのではないかと考えます。

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