牧師のページ

「教理」の学びのために時間をかけることの意義

★今、わたしたちの教会では、ローマ人への手紙を読んでいます。ローマ人への手紙の内容は、大きく2つに分類することが出来ます。前半部分が第1章第11章までで、その内容は「キリスト教の教理(教義)」と要約できます。後半部分が第12章から第16章までで、その内容は「キリスト教倫理(信仰の実践)」と要約できます。今日からわたしたちが取り組むのは9章ですから、引き続き「キリスト教の教理」の内容であります。★この2つの内容構成の意図は、まず「わたしたちは何を信じるか(教理)」が先にあり、その後に「わたしたちは如何に生きる(行動するのか(倫理)」が来る、ということです。この順序は大変重要なのです。しかし、時に、主イェスが語られた次の言葉が混乱を生みます。★「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。/あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。/そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。/良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。/良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。/このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。」★よく読めば分かりますようにこの主イェスの言葉には「良い実」の定義が具体的に語られてはいないのです。別の言い方をすれば、外側に出て来る「倫理的行為」が全く同じでも、背後にある「教理」が全く異端的であるという場合が起こるのです。ですから「倫理」の前に、時間をかけ、忍耐を持って「教理」を学ぶことは重要不可欠なのです。
RapidWeaver Icon

Made in RapidWeaver