まず、主なる神様のみ声を聴く
15/08/10 00:00
★(20)知恵は、ちまたに呼ばわり、市場にその声をあげ、(21)城壁の頂で叫び、町の門の入口で語る。(22)「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。(23)わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。」★この「箴言」の言葉からも理解されますように、知恵文学と呼ばれる「箴言」は、知恵を“人格的”に描いています。その理由は、単に文学的手法であることを越え、知恵が「現実に人格となる(イエス・キリストの受肉)」ことを予表していると思えます。もちろんこれはキリスト教的な視点ですが。★この視点を受け止めていただけますと、被造物である人間にとっては、「相互にコミュニケーションをする」という点が、最も重要であるように思えます。しかも「知恵は…呼ばわり…声をあげ…叫び…語る」とありますように、まず最初に、向こう側(主)から、こちら側(私たち)に語りかけて来るという順序があるのです。この順序は、旧新両約聖書を一貫している事柄であると私は理解します。ですから、「イスラエルよ聞け!」であり、「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである」、となります。★昨今のインターネット事情に限られたことではありませんが、私たちを人格的存在として創造してくださった御方との間のコミュニケーションを土台とすることなく、横の関係における言葉を聞くことは、膨大な数の価値基準が提示されている展示場の中で、途方に暮れてしまうだけのように思えます。