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死のからだでありつつ義とされていることが聖化の出発点

★少々長い文章の書き出しです。信仰によって義とされ、律法主義から解放され、救いを受け取ったキリスト者は、自分自身が「死のからだ」であることを自覚して聖化の歩みの土台である律法を生きるのです。★パウロが「死のからだ」の特徴を次のように語っています。「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の法則(律法)があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。」★ですから理屈を言えば、キリスト者は「死のからだ」であるが故に、救いを受け取った後、聖化の歩みが必要なのです。★このことが正しく理解されていませんと、ルターが語る次の言葉が理解できません。★悪魔は、しばしばわずかな罪をつかまえる。そうやって悪魔は、あなたが生涯をかけてしてきたよい行いをすべて覆い隠してしまうので、あなたは自分の内に、その同じ罪しか見ることができなくなる。しかし、このようなことは、あなたが悪魔との議論にはまってしまったときに起るのである。だから、キリスト者は、このような悪を及ぼす思いを軽蔑するようにして、まるごと克服しようとするのはやめなさい。なぜなら、悪魔は傲慢な霊であるから、軽蔑には耐えられないからである 。しかし、このためには、聖霊と熱心な祈りの鍛練と、また、聖書を誠実に読むことが必要である。なぜなら、悪い思いを克服して心から追い出すのは、人にできる行いではないからである。★キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に信頼するのです。
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