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生ける神を待ち望め

★詩篇42篇は“魂の渇き”を歌う詩篇だと言えます。作者はこう歌います。「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」
★読んですぐにわかりますが、この詩篇の作者は信仰者ですから、その渇きとは虚無に落ち込んだための渇きではありません。この作者にとっての渇きは「あなた」と呼び得る「いける(生ける)神」に向かう渇きであります。ここから二つのことを考えさせられます。第一のこと、それは、信仰者もまた魂に渇きを覚えるということであります。別の表現で言えば、生ける神との交わりが持てていないという喪失感とも表現できます。だとすれば、その渇きの理由としては、生ける神との分離ないしは生ける神からの離反という現実があることになります。★第二のことは、それ故に、この信仰者の渇きには、満たしがあるということです。必ずしも“魂の渇き”が即座に満たされるとは言えませんが、必ず満たされる時があるのです。詩篇の作者はこうも歌います。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」読んでの通りです。渇きの中で「あなた」と呼び得る「生ける神」を待ち望むのです。言葉を換えれば「満たされる時を待つ」ということです。★しかし、ただ待っているのではありません。二つの待ち方があります。一つは、渇きそのものを体験し、その体験を言語化することです。もう一つは、渇きの現実を感謝し、喜び、「あなた」と呼び得る「生ける神」を賛美することです。私は、どちらの待ち方にも意味があると考えています。大切なことは、“魂の渇き”が「生ける神」に向かっていることを知っていることです。
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