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キリスト者は律法主義に生きるのではなく律法を生きるのです

★使徒パウロが発見した「信仰によって義とされる」ということは、より正確に言えば「律法によって義とされるのではなく、信仰によって義とされる」となります。この結果、パウロはユダヤ教から厳しい迫害を受けることになります。その理由は、上記の言葉では、律法が破棄されてしまうかのように聞こえてしまうからです。★パウロが執筆した(古典的表現を用いて)ガラテヤ書やロマ書をよく読みますと、パウロは決して律法を破棄したり、軽んじたりしてはいないのです。★ガラテヤ書第5章1節6節,14節を読んでみましょう。[01]自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。[02]見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。
[03]割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。[04]律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。[05]わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。[06]キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。[13]兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。[14]律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。★「律法によって義とされる」ことから自由にされたキリスト者は「御霊の助けにより」「(律法全体の要約)自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」を生きる者
とされるのです。
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