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主のみ前に「あるがまま」をさらけ出す─祈りの一つの形

★「わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。」(詩篇118:5)この詩篇の言葉に基づいて、ルターは次のように語っています。
◆「主を呼び求めた」とはこういうことである。あなたは、呼び求めることを学ばなければならない。あなたはそれを聞くのである。◆一人でじっと座りこんだり、ベンチに横たわったりして、首をうなだれ、頭をふり、あなたの思いがあなたを噛み付き、食い尽すままに思いわずらい、どうやってそれを追い払うのかばかりを考え、どんなにあなたがまずいことになっているか、どんなにそれがつらいことで、またどんなに自分はみじめな人間だろう、ということのほかには目に入らなくなってはだめである。◆そうしていないで元気を出しなさい。腐っているあなた。◆ひざまずいて、目と両手を天に向け、詩編か主の祈りを唱え、あなたの悩みを泣きながら神の前に詳しく述べて、嘆き、呼び求めなさい。あなたが悩みを自分にしょいこんで、それを自身でもち続け、自分をかじり、責めさいなむがままにして、あなたがーつの不幸を二にも十にも百にもしてしまわずに、神の前にそれをお見せすることを、神は望んでおられるのである。★この文章が書物からの抜粋であるため「それを聞くのである」という言葉の意味が不明ですが、全体として聴き取れば、事あるごとにルターが「主を呼んでいた」と推察することが出来ます。★「あるがまま」という言葉がキリスト教会に広がりましたが、創造主の前に「あるがまま」が知られている以上、創造主の前に「あるがまま」を打ち明ければよいのです。それ自体が祈りとなります。
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