牧師のページ

福音は「死の体」を自覚するキリスト者のためでもある

★今朝は、主イェスを否認した弟子ペテロの姿を確認します。主イェスが大祭司カヤパのところで裁判(審問)にかけられている場での出来事です。★(24)それからアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところへ送った。(25)シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」。彼はそれをうち消して、「いや、そうではない」と言った。(26)大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の親族の者が言った、「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。(27)ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。★私たちキリスト者は、この出来事を読むたびに何を考えるのでしょうか?角度を変えて、私たちキリスト者は、この記事をどのように読むのでしょうか?あるキリスト者は、「ペテロのような罪に陥らないようにという警告だ」と読むかもしれません。とてもわかりやすい教訓的な読み方です。しかし、この読み方だけでは恐らくキリスト者としての自分を苦しめる方向に結実するでしょう。かと言って、このペテロの姿は自分の姿だと考え、ペテロと同じ過ちを自分が平気で犯すことを易々と許すことにも、恐らく抵抗を感じるでしょう。★私たちは、ペテロの姿をどのように読むのでしょうか?「これぞ正解」というような読み方があるわけではないでしょう。ただ一つだけ明らかなことがあります。「わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」この恵みの言葉が私たちの前に置かれています。
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