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内なる光が暗ければ(暗闇ならば)


★今日は次の言葉を考えます。「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」★この主イエスの言葉を理解するために、前後の段落内容を確認します。そうしますと、この言葉は「天に宝をたくわえる−宝のある所に心もある」という主題と「二人の主人に兼ね使えることはできない」という主題に挟まれていることが分かります。そこから「全身(からだ)が明るいとか暗い」とは、人間の行動の比喩ではないかと想定できます。その点を理解して「あなたの目が澄んでおれば」と翻訳された個所のギリシャ語本文を見ますと、その直訳は「あなたの目が一つであれば」となっています。口語訳は「一つ」ということを「澄んでいる」と解釈したわけです。★しかし、人間の目は基本的に、二つで一つのものを見るように出来ているわけですから「あなたの目が一つであれば」ということは、一つの事柄に人間の関心が向いていることの比喩とも考えられます。この時、人の行動は安定したものになります。そうしますと「目が悪い」とは、人間の関心が一つに定まらず、目移りしている状態のことだと考えられ、人の行動は不安定なものになります。★これを下敷きにして「内なる光が暗ければ(暗闇ならば)」と展開されます。難しい比喩的展開ですが「内なる光」とは「内なるあかり」のことであり、人間の全行動(人生そのもの)を規定する霊的な目のことだとしますと、その霊的な目が暗闇だとしたら、その全身の暗さ、即ち、その人の人生は、主なる神様から見て、どれほど不安定であるかということです。
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