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「キリストにある幼子」からの成長

★今朝は、異邦人ナアマン将軍の姿から学びます。重い皮膚病であった将軍ナアマンは、北イスラエルの地から連れてきた一人の少女の助言に従い、その病を癒してもらうため、スリヤ王の親書を携えて北イスラエルにやって来ます。★預言者エリシャの下に出向いたナアマンはエリシャから次のように命令されます。「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」★この言葉を聞いたナアマンは「怒って」エリシャの下を去り言います。「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、…病をいやすのだろうと思った。」★この場面を読むたびに考えることは、異邦人ナアマンの思考です。何度も何度も繰り返して語りますが、ナアマンは自分自身の側で病の癒しをもたらす方法を決め込んでいます。そして、その方法とエリシャの提示した方法とが異なったので、「怒って」去ってしまいます。★ナアマンの思考方法とその思考の結果に基づいた行動は、心理学の視点で言えば「幼児的行動」そのものです。神学的に言えば、物事の善悪を決めるのは「私」だという、アダムとその妻がエデンの園において選び取った生き方の末路です。★このように、神学的に「罪」と判断される生き方とは、心理学的に言えば、自分が王(=神)であるという幼児性を生きてしまう態度の中に発現しているのです。この意味で自分自身を再吟味する時、自分の中にナアマンが生きていることが自覚できます。赦された罪人であるキリスト者は「キリストにある幼子」からの成長が期待されています。
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