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主イェスの羊は主イェスを知っている

★主イェスの福音を伝える働きを進める上で、主イェスが語られた言葉の中で、大変“不思議”でかつ“ありがたい”言葉があります。これです。
(14)わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。(15)それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
★この言葉に基づくなら、「主イェスの羊」は「主イェスを知っている」ということです。もちろん、顔見知りというような意味ではありません。これは宣教的な視点で表現することができます。教会の講壇等から、主イェスについて語られます。それは、説教でも、奨励でも、あかしでもよいのです。そうしますと、「主イェスの羊」は「主イェスを知っている」が故に、その言葉に応答するはずなのです。★この応答が、毎回の主日礼拝等の中で、「瞬時に起こる」とは考えませんが、時が来れば「必ずや起こる」と信じています。これは私の勝手な推論ですが、「主イェスの羊」であっても、罪人に変わりはありません。主イェスの言葉に反発し、時には無視し、「主イェスの羊」であるようには見えないはずです。しかし、時が来れば「主イェスの言葉」に捕えられるのです。★宣教の働きを根本的に支えるのは、この主イェスの言葉であると私は考えます。宣教の形式を「堅い・暗い」と評価する視点もわかりますが、本質は「主イェスの福音」が語られているかどうかではないかと‥‥。
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