「恵み」と「信仰」の関係を、人間の側から考えたなら
30/10/16 00:00
★心理学者の河合隼雄先生は、私たちの心がある事を決める時、心の中に100個のボールが有ることをイメージして考えると分かりやすいと教えてくれました。例えば、夕食を和食にするか洋食にするか、決めるとします。そのような時、最終的に洋食と決めた場合、心の中は「49(和食)対51(洋食)」で決まっていると考えるのです。心の中は「0対100」ではなく、一個のボールの移動で「50対50」の均衡が崩れただけなのです。★このことをアブラハムの信仰に当てはめてみましょう。空の星を見て「主なる神様には可能である」と信じた時、彼の心の中は「51(可能)対49(不可能)」であったと推察することが出来ます。しかし、自らが100歳になり、神から「わたしは…彼女によって…ひとりの男の子を授けよう」と告げられた時は「1(可能)対99(不可能)」であったため、ひれ伏して笑い「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」と語ってしまったと推察できます。★信仰について言えば、アブラハム自身でもこの「1」を感じることができないのではないかと思います。しかし、聖書の神はこの「1」を拾って下さる神なのだと私は考えます。★「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。」と語るパウロは旧約聖書を知らなかったわけではないと思います。この言葉は、パウロ自身が「1」を拾って下さるこの恵みの神様に拾われたからこその言葉だと解釈します。