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「わたし」の苦難に意味があるとしたら…

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★加藤常昭先生が「伝道者として生きて、幾度、このパウロの言葉に慰められたことであろうか」と語る使徒パウロの言葉がこれです。「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。(Ⅱコリント4:812)」★先生は語ります。「途方に暮れることがあるのである。打ち倒されることがあるのである。惨めな思いで打ちひしがれることがあるのである。」先生の言葉は、「だが‥」と続きますが、ここで一旦言葉を止めることが重要なのだと思いました。★パウロにしろ加藤先生にしろ「だが」という言葉を語ることが出来る時に至るまで、ある一定期間、「言葉で表現された通りの状態」の中に「留まった」ということです。人間的に想像すれば、相当「しんどい」はずです。★ここで、「だが」以降を持ち出せば、「死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働く」とありますように、自分がその「しんどさ」を引き受けたのは「あなた(がた)」と呼ばれる人達に「いのち」が働くためだったという「目に見えない連続があった」のです。これは、キリスト者にのみ理解できる連続だと思います。
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