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被造世界の管理者として、部分的ではあっても“義”を生きる

sna-075
★今日は「主イェスという御方(存在)が神の義(完全な義)であった」という判断から、この世において、私達が「義」を生きることを、どのように考えたら良いのかを述べたいと思います。★抽象的な表現ですが、日本においても「社会正義」が揺らいでいます。キリスト者を含めた私達(罪人)は「神のかたち」に創造されている自分を「義しく」生かすことが出来ないのです。★主イェス(の存在)と「完全な義(社会正義を含む)」とを類比的に考えてみましょう。主イェスはこの世の歴史の中で、人間の手によって殺されました。類比的に言えば「完全な義」が殺されたのです。しかし、新約聖書の啓示から明らかなように、主イェスは「死から復活」され「天」に帰られました。つまり「完全な義」は人間の手によって抹殺できなかったのです。★主イェスは来るべき時に「再臨」されます。つまり、「完全な義」が支配するのは主イェスが再臨された後の世(神の国)に於いてです。★ですから「完全な義」が目の前にないため、私達キリスト者も、意気消沈してしまいます。しかし、この世にあって「義を求めて生きる」ことは無駄ではないのです。「義」を生きる根拠としての「完全な義」が「今」は目に見えない「天」にあります。時が来れば、全ての人は復活し、審判に臨み「完全な義」が人間を含めた全被造物に対して明白になります。今の私達に引きつければ、「部分的」ではあっても「義」を放棄せずに生きていて良かったと確認できる時です。★繰り返します。この世において愚かに見えても「義」を生きることです。「義」を生きる根拠としての「完全な義」が「今」は目に見えない「天」にあるだけのことです。
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