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ヨブがささげる燔祭に示される(父)親としての愛

pcd09062
★ヨブ記には、ヨブの父親としての姿を記している箇所があります。
[01]ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。[02]彼に男の子七人と女の子三人があり…[04]そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。[05]そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
★注目したいのは、ヨブが、子供たちのために、子供たちに代わって、子ども達の罪のために燔祭を捧げているという行為です。新聖書注解の判断によれば、この時レビ記の規定はまだなかったとしていまが、この燔祭は「贖罪」を目的としていることは明らかです。★ヨブのこの行為は、大きく考えれば、「神を恐れる」ヨブにとって、子供たちの中に「神を恐れない子供」があり、その罪の結果がその子に帰することを回避したいという親の愛から出ていると言えます。三人の子どもを託された父親である自分を省みる時、このヨブの姿勢にほど遠いことを痛切に感じます。そのように感じ取りつつ、同時に考えることは「それでは、今後、自分は何をするのか?」ということです。★「転換が早過ぎる」という声も上がるでしょうが、心理的な懲罰を延々と繰り返すよりも、主イェスにおいて啓示されている、父なる神による贖罪(=愛)に心を向けることなのだと信じます。
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