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「律法」の位置づけ

pcd07008
★パウロが律法について語っている箇所に次のように書き記されています。
(17)…神によってあらかじめ立てられた契約 (→アブラハム契約) が、四百三十年の後にできた律法 (→十戒等) によって破棄されて、その約束 (→アブラハム契約の中に書き記された約束の内容) がむなしくなるようなことはない。
(18)もし相続が、律法 (→十戒等) に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。
(22)…約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
(23)しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで(罪の下に)閉じ込められていた。
(24)このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
★私の聖書解釈では、このパウロの議論は、人が「信仰(→恵み)」によって「アブラハムの子孫」とされること、即ち(民族的表現を外せば)「神の子」とされるために「律法」が「結果的に」、「わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となった」という意味です。つまり、「律法」本来の働きが、最初から「キリストに連れて行く養育掛」であったわけではない、ということです。★私の「律法」理解は、「文化(歴史)形成命令」を実行するための法である、というものです。
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