箴言のめざすもの
25/07/10 00:00
★知恵の書に分類される箴言は「箴」という言葉自体に「いましめ」という意味があります。それ故に、「箴言」の多くは「辛言」とも呼ぶべき言葉となります。★心地よい言葉に出会う時にも気付きはありますが、気付きを与えられるという意味では、聞きづらい言葉の場合も実は同様なのです。ただ、この場合、言語化はしていないけれども、心がうすうす感じ取っている事柄を、明確化されるだけに、同時に心に辛さも感じてしまうわけです。★とは言え、現実的に言えば、「辛言」は成長へ向けての指摘である事がほとんどであり、逃げずに直面し、指し示されている方向へ、一歩でも二歩でも進み出す事が肝要なのです。★このように前置きさせていただいた上で、旧約聖書の箴言に目を向けますと、箴言第1章7節には「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」とあります。ここで多少理屈を述べます。前半の部分は、「主なる神様を畏れることを、知識の一番始めとせよ」ということと同意です。しかも、「主なる神様を畏れることを、知識の一番始めとせよ」とは知恵の言葉であり訓戒の言葉でもあるのです。ですから、誤解を恐れずに聖書の視点で言うならば、「主なる神様を畏れることを、知識の一番始めとしない」人間は「愚かな者」なのです。★この箴言の主旨を突き詰めれば「愚かな者になりたくないなら、主なる神様を畏れよ!」となります。★同志社大学の創設者と言われる新島襄氏が「はじめに神は天と地とを創造された。」という、創世記第1章1節のこの言葉によって開眼したことは、大変良く知られた事ですが、これこそがこの箴言の目指していることなのです。